民主主義とは無条件でいいものなのか?

読んでいて涙が出そうなほど難しいが、「民主主義は良いもの!」といった単純な視点から離脱する、なかなか示唆のある本。何箇所か引用してご紹介。一番上は個人的に「ほー」と思った点で、ちょっと毛色が違います。

しかし、クラークを単純に殺害するという意味は、そこにはなかった。目標は、個人としてのクラークではなく、階級としてのクラークを一掃することであった。(中略)ナチスの反ユダヤ主義を見れば、ここでもスターリン主義とナチスの差異ー極小ではあっても決定的な差異ーは決して消えることはない。ナチスの反ユダヤ主義においては、実際に、個人としてのユダヤ人を絶滅すること、人種としてのユダヤ人を消滅させることが最終目標であった。(P395)

 

したがって、民主主義には、他のものに還元できない二つの基本的側面がある。ひとつは、「余分な」者、「全体の一部ではない部分」、社会組織の内部に形式的に含まれてはいるがそこに決められた場所を持たない者の論理が、平等主義を旨として暴力的に出現すること。もうひとつは、権力を行使するものを選ぶための規則化された(多少とも)普遍的な手続きである。この二つの側面は、どういう関係にあるのか。第二の意味の民主主義(「人民の声」を形にする規則化された手続き)が、結局のところ、事故に対する防衛、社会組織の階層的機能を壊乱する平等主義的論理の暴力的な介入という意味での民主主義に対する防衛であるとしたら、どうだろうか?つまり、この過剰を再実用化する試み、それを社会組織の正常な運行に組み込む試みであるとしたら?(P400)

 

ここで受け入れるべき過酷な結論は、民主主義的手続きを凌駕するこの平等主義的民主主義の過剰性は、それとは反対の装いの下で、つまり革命的ー民主主義的恐怖政治(テロル)としてはじめて「制度化」される、ということである。(P401)

 

したがって民主主義は、敵対性を取り入れることができるだけでない。民主主義は、敵対性を積極的に求め前提とする、つまりそれを制度化する、唯一の政治形態である。民主主義は、他の政治システムが脅威と考えるもの(「生まれつき」権力者たろうとする者が不在であること)を、自らが機能するための「正常な」皇帝条件として位置づける。権力の座は空白であり、その座を生まれつき要求できる者はいない。だから争いpolemos/闘争を解消することは不可能であり、実在するあらゆる政府は争い polemosを通じて勝ち取られねばならないのである。(P426-427)

個人的に私も、周りの人も、「民主主義最高!」と考えているのは、単にそういう時代の生まれだからであって、他の時代に生まれ、しかもそれで不自由なく暮らしているのであれば、そのときの政治体制についてさして疑問も挟まず生きていただろうし、今後も民主主義以上に「良い」と考えられる政治体制が出現する可能性もある。無条件に民主主義を信じていては、そこになにか邪なものが入り込んでも気がつくことができない。

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