徒然日記

茶人たちの日本文化史」を毎晩、前日の寝落ち寸前〜当日読んだ分をノートにまとめる作業をやってみた。これはこれで楽しい。ただ、「どのようにまとめればスッキリするか?」を試行錯誤しているので、なんとも取り留めのない状態になってしまい反省。ノートの2ページ目に突入した時は、余白が多めになりました…こうすれば次回似たような話題を読んだ時に追加で(色でも変えて)書き込みできるはず!

なんだが、次に読んだ本がなんとこれ↓。

 

本の余白に書く「マルジナリア」についての本。ちゃんと沢山書き込めるように、余白多めに製本されているし、内容が滅法面白い。夏目漱石は「マルジナリア狂人」らしいが、流石ツッコミも冴えていて「馬鹿ヲ云エ」「ナンダコノ愚論ハ」「コンナ長イ独言ヲ言フ者ガアル者カ」「ソーデスカ」などなど、容赦がない。私も本に書き込みはするタイプで、松岡正剛リスペクトのパイロットVコーンを本と持ち歩くようにしている。(なお、Vコーンは肝心の松岡正剛の「千夜千冊エディション(文庫)」だと滲むのだが、なんとかなりませんかね。角川ソフィア文庫様。)とは言え、線を引くことは多いが、余白に文字を書き込むことはあまりないので、まずは「ソーデスカ」レベルのツッコミからマスターしていきたい。…って、あれ?これノートいらなくね。まぁ、母上や図書館で借りる本を読むことも多いから、いいか…因みにこの本を読んで、「世の中にはグレーのマーカーがある」ということを知った。明日買ってみよ。

あと、その前に読んだ「へんちくりん江戸挿絵本」って本の「おわりに」が中々考えさせられるので引用しておきます。長い引用ですみません。

この時代には、出版と書物が普及したことによって、身分、職分よりいも知識や教養の程度による、ある意味で新たな階層的再編成が起こりはじめ、学芸、文芸その他の文化的活動とのかかわりの程度が出自で決まってしまうような状況ではなくなりつつあったのです。

P233

この時期に新たに書籍に触れるようになった読者たちは、こういうふざけた作品にも、娯楽だけではなく役に立つ知識や情報、ためになる教訓や教養を求めたようです。そんな読者たちを前に、それまでにあった自由な発想のうえに教訓が添えられる様をみてきました。(中略)

それでも、その大衆化の時代において、既存の知の形式を基盤としてそれと戯れるような読み物を求める層の裾野が広がったことの意義は見逃せないでしょう。当時の大衆的読者の需要を単純化していえば「おもしろくてためになる」ということになりますが、そのおもしろさを構成する多様な要素のうちに、既存の知識、知の形式を土台とした戯れが含まれたことで、その読者たちの知や学問への憧憬と意欲が喚起される面もあったことでしょう。

P234-235

自由な発想でさまざまな知識やその形式に戯れかかることがさかんに行われてきたにもかかわらず、十九世紀を迎える頃には、自国の神話や歴史という自分たちのアイデンティティにかかわる記述が大衆化のなかで絶対化されていく傾向を確認しました。いっぽうその外側の世界については、真偽を問わず怪しげな情報が積極的に再生産され、受容される状況が生まれたのもみてきました。(中略)

こと自国の歴史の問題になると、遊びが遊びでなくなり、笑いとして理解されなくなるということがすでに江戸時代に起こっていたということを指摘しておきましょう。

P236

…ううむ、どっかで聞いたことのある話だな!途中から教訓が追加されるのは大津絵の流れでもあったし。

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