赤子と私

リモートワークというのは家でなくてもネットとPCがあり、ちゃんとした環境であればどこでも仕事出来るということだ、と気がついたのはお盆の時だった。要は実家で仕事すればいいじゃん、ということである。その応用で「妹宅で仕事すればいいじゃん」と言われたので、0歳児の赤子のいる、しかも運悪く旦那さんが出張中でワンオペ(しかもしかも、あろうことか引っ越し翌日)の妹のうちへヘルプしに行ってきた。もちろん自分の仕事もしつつ、である。当たり前だが妹の家は私の家ではない。窓の外の車の音や天窓に打ち付ける雨の音以外はほぼ無音に近い環境で日々過ごしているところに、自分以外の人間が2人もいる、テレビもついている、風呂の温度は赤子仕様でぬるめだし [1]というより、私が熱めが好きなんだと思う。、気ままに本読めないし、てか、本1冊しか持ってきてないからないし、夜泣きで起きるし、ノートパソコンのモニターは小さいし…まぁそういう細かいのが積み重なって疲れてしまった。実家も似たようなものなのに、こうはならないんだから、やっぱり実家は実家であって、妹の家は「他人の家」なんだろうな。まぁ、仕事はきっちりやったし、段ボールはほぼ片付けたし、赤子の面倒もみたのだから、及第点はもらえたはず。大体私は赤子に好かれるタチなのだ。姉妹だから声が似ているといった理由もあるだろうが、単に私が子供っぽいだけなのかもしれない。家族には「薄汚れた大人にはわからない魅力があるのよ!」と強がってみたが。

で、肝心の赤子。小さい子を見ると「この子は自分を自分として認識しているのだろうか?私を他人として認識しているのだろうか?」と考えてしまう。「私を他人として認識する」というのはすなわち、「私を自分でないと認識する」ことだから、結局は「自分(とそれ以外)という認識がある」かないか、なのだが。鏡にうつったモノが自分と認識しているかどうかという動物実験の結果をたまに見かけるが、鏡にうつるのはあくまで己の肉体で、その肉体の中(?)に潜む(?)精神、意識、魂。そう呼ばれるものがいつ認識される(わかってもらえる)のだろう?間違いなくそれらはその子の中にすでにあるはずなのだが。もしかして、これは年齢に関係なく、子供でもわかってるならわかっているし、わからないまま死ぬ大人もいるということなのかしら?他者との関わりを通じて徐々に・・・なら、現在の一般的なケースでは生まれた瞬間から他者まみれだし、まさか学校みたいに年齢で決まるもんでもあるまい。せめて自分の場合はどうだったかを思い出そうとするのだが、全く思い出せないのはもどかしい限り。

ついでに。前にも書いたが、こうやって小さい子の面倒を見ると「私には母親は無理だな」と思う。「産めば意識が変わるよ!」という人がいるが、高々「持ち込んだ本は書き込みながら読みたい。書き込みながら読む場合は風呂で読めない。故に風呂の中で読む本がない。(風呂本は重いからって持ってこなかっただけ。)」ってことで、うーうー言う人間が365日人の面倒をみれると思いますか?自分の人生の面倒見るのにもこの調子なのに、人ひとり、育てる勇気なんぞ持てません…

 

 

久しぶりに池田晶子読んで、「これこれ!これーーー!」ってなったのでこんなことをつらつら書いてみた。やっぱりたまには読まないと、腐るわ。色々と。

References

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1 というより、私が熱めが好きなんだと思う。

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