違和感の正体(「記憶を和解のために」)

相変わらずのナチス絡み、別の視点の本ということで読んでみた。端的に言えば、ホロコースト生存者の娘である筆者(ただし、一般的に想像するであろう強制収容所からの生存者ではない)による、ホロコーストに関する記憶とその影響などについてなんですが、論点はわかるものの、文章がスッと入ってこないのは、恐らく記述が筆者の心の動きにより忠実で、その心の動きに私がついていけていないからに違いない。それになんだかよく分からない違和感もあった。

語ること、語りえぬこと、それによる親子間の微妙な関係、子供独自が持つ記憶、ドイツ人との記憶の共有、ドイツ人より「より微妙な」ポーランド人との記憶の共有、戦後東西ヨーロッパ間の記憶の取り扱いの違い・・・これらは確かに新しい視座だったが、最期までどうしても拭えなかった違和感、読み終えてやっとわかった。

ホロコーストなり、ルワンダなり、911後明らかになった中東における反ユダヤ主義だったり。これらが明らかにしているのは「人を人種だとか宗教だとか、そういうもので分ける故の愚かさ」、つまりそういうものを前提としているからああいう殺戮や悲劇が起こるのだ、という点に尽きるのだと思うが、筆者は自らを「ユダヤ人」しかも「第二世代」しかも「移民」と二重三重にラベリングしている。もちろん、いわゆるアイデンティティーというやつで、誰しも多少なりとも持っているものだから否定しようもないんだが [1]私も「日本人」で「広島県人」で、あれでこれで・・・と色々持ってる、アイデンティティーを全面に押し出されているので、なんというか「ホロコースト生存者の第二世代でないお前にはわからんだろう?」という拒絶というか一線を感じてしまう。みんなで乗り越えるべき壁を、乗り越えるのに手助けできる人が、自ら高くしているような感じ。そうされると、こちらは「あぁ、はぁ、まぁ・・・どうせ私はあなたと違うものね」と距離を置き、追々この距離がまた次の愚かさへ繋がってしまうと思うのだが、どうだろう。まぁ、これは私が深読みしすぎているだけなのかもしれないし、被害者に鞭打つ態度だと非難もされよう。ただ、人の作り出した概念で人を括ってそれに囚われるのは、やっぱり意味がないように思えるだよな。

 

References

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1 私も「日本人」で「広島県人」で、あれでこれで・・・と色々持ってる

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