世界の見え方について

私はカントやらヘーゲルの本をずっと積読していて、まだきちんと読み込んでいない。読み込んでいないから、そういう哲学者の認識論ではなく、あくまで私の実体験からの話になるのだが、最近同じものを見ていても、この人には全く違う風景に見えているのだろうな、と思うことが仕事でよくある。え、それ気が付かなかったの?なんで報告しないの?それを見落とすってあるの?

私はデータのチェックを長らくやってきたので、注意どころ、勘どころは確かにその人たちよりわかっている。扱っているデータがすぐに直せるか否かも知っている。知っているから色々気が付くけれど、知らない人からすればデータは絶対不可侵で絶対変更不可能なものとして、修正すべきものにはみえないのだろう。だからどんなに面倒でもそのまま受け入れてしまうのだ。そこはしょうがないと思う。

問題は修正すべきデータがあり、修正できることも知っている「はず」の人まで何も言わないことである。なぜ君が気が付かないのか?普段やっていることと、いま目の前で起きていることがなぜ紐づかないのか?ハテナの極みなのだが、ただ単に見えていないのだろう。常々思うのだが、仕事でも勉強でも、仕入れた知識を頭の中で、いかに紐づけることができるか?が重要だと思う。点の知識を直列、並列で繋げる。最終的に頭の中にウェブを作り上げることができれば、文句なし。何か新しい知識や状況を前にしても、頭の中の蜘蛛の巣になにかしら引っかかる。

結局人はそれについての知識が(一応)あろうがなかろうが、自分の見たいものしか見ないのだと思う。脳みそに蜘蛛の巣が張っていれば、引っかかるゆえに存在を認識し、そうでなければ素通りするのだろう。見えていないものは自分の世界に存在しないものなのだ。そうだとすると認知の狭さは一体どうやって拡げたものか。歳を取れば取るほど、今までの経験とそれに基づくプライドでなかなか改善しにくい。私は、人生60年のつもりで生きているので残り3分の1。相手が若い子ならともかく、そうでもない他人は自己努力に任せ、私は私でこれからも自分の認識の範囲、つまり世界を拡げるために、不断の努力が必要そうです。

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