不味いお茶だと…

仕事終わりに、さてお茶でも飲みながら本でも読みますか!という気分で、不味いお茶だと死にたくなるので、奮発して高いのを買ってます。ほうじ茶は前に買ったのがそもそも美味しくなかったのか、それゆえ消費できぬまま古くなってしまい、ますます味がよろしくなくなったのか、それともいれ方が悪いのか、どうも喉にチクチクするので、あまり好きではない。玉露も淹れ方が難しいのでパス。やはり舌が慣れているお煎茶が一番好きなのです。それも何度も湯を足した出涸らしに近いのが最高。それをズズズとお行儀悪くすすりながら、これまたお行儀悪く足を投げ出して本を読むのは冬の至福の時なのです。

故に、不味いお茶だと死にたくなるのだ。

2020年、今年の総括!(生活編)

私はここ数年ほぼ日手帳を使ってて、できる限りその日の日記をつけるようにしているのだが*1、それを読み返しつつ、今年を総括してみようと思う。

■1月

新年早々出社だったのだが、人の品性問題にえらく憤っている。人間椅子にハマったり、2月末のチュニジア旅行の準備をしたり。1/22に「武漢のコロナウィルス」について初言及。新年の帰省でいきなりコーヒーがまともに飲めるようになったので、月末にコーヒーメーカー買った。

■2月

iPhoneをチュニジア旅行に向けて機種変。初めての10万越え&審査にビビってたのが月初。日記によると、FaceIDをどうしても信用できずに会社で部下の顔で試しまくってたらしい。チュニジアへの旅はビジネスクラスだったので、空港や飛行機の中でめっちゃ興奮してた。この辺はあえてコロナに触れてないな…

■3月

チュニジュアから帰国して落ち着いた2週目くらいから仕事へのコロナ影響についてチラホラ書いている。因みに会社では「リモートワークへの準備が完璧だった」と評価されましたが、全てはチュニジア旅行のためでした。旅行中になんかあっても、メンバーが対応できるように全業務洗い出してたからね…3/23に自粛生活で必要なものを以下のように洗い出していて、25日に仕事帰りにスーパーに行ってパスタや乾麺がない!って騒いでいる。31日に「リモートだと本を読めない」とぼやく。

娯楽:本 OK

飲み物:水 OK(一応買うか?)

    その他 まぁOKでは?

食べ物:缶 OK とは言え買い足しておく?

■4月

中旬くらいから「いかにリモートワーク環境を整えるか?」と試行錯誤。プリンター買ったり、ワゴン買ったり。4/9に謎のぼやき。「思うに、死ぬ私は死んだらいなくなるのだから、死を認知しえない。となると、私の死とは私にとって何なのか…?と考えると、死ぬときは人は死ぬ、とあきらめ?がついてくる。生への未練はヘーゲルを読まずに死ぬことぐらいにしておきたい。できればそれもなくしたいけど他に読む本が多いからね。こまったものです。」因みに今時点でもヘーゲルは1行も読んでいない。こまったものです。

■5月

食べたもの、体重、本の進捗しか書いていない。今年のGWはずっと仕事をしていた。いきなり板タブを買って、遊び始めたのもこの月。

■6月

仕事が忙しかったらしい。防衛白書に知り合いが載ってて自慢してた。

■7月

この月から日記をサボり始めている。月末、頭痛に悩まされていた。今から振り返ると、3月末から始まったリモート生活に慣れて、本格的に書くことが無くなったのだと思う。

■8月

1ヶ月まるっとサボっている。因みにお盆は実家に長めに帰って「もうどこで仕事しても回るじゃん」というのを実感してた。

■9月

前半、色ボケ。後半、美術館回り。浮世絵と大津絵。コロナで外国からの貸し出しができないだろうから、日本ものが充実するかも!と考えていた、芸術の秋。

■10月

サボり気味。中身も特筆すべきこともない。三鷹(武蔵野)住民なのに、初ジブリ。子供と一緒だったので、一番じっくり見たい部分が素通りだった。てか、ジブリ美術館、子供は猫バス以外に面白い要素あるんか?短編映画は怖がって号泣してる子いたし…

■11月

やはりサボり気味。暇だったのか美容系YouTube見まくってた。(おすすめ化粧品のメモあり。)11/28に川鍋暁斎展と桃山展を両方見に行くという無謀なことをしており、案の定バテていた。図録デカくて重いからね。

■12月

サボっている。ほぼ唯一のメモ「仕事=クソ」

 

一言で言うと、2020年は私にとって、働き方見直しの年だった。「意外とどこでも仕事ができる」「ちゃんとやればコミュニケーションも問題ない」この辺がわかったのが良かった。何より「リモートワークでできない仕事は、何かしら効率が悪い*2」という基準で、業務見直しをできたのが良かった。

また、リモートワークが主流になるにつれて、住環境も見直したのでずいぶん居心地の良い部屋になった。通勤がない分、朝夜の時間が充実したのは間違いない。まぁ、朝は睡眠時間にそのままアドオンなってるけど…読書については、最初は「そもそも平日に家で本を読む習慣がない(風呂の中以外)」だったのでリズムを組めずにいたが、徐々に昼休憩や夜仕事後に読めるようになってきた。これは住環境の見直しで読書しやすい環境を作れたのも大きい。

2018年、2019年分を見返しても、夏ごろから日記をサボり始めているので、来年の目標は「最後まで書く」にしよう…そして、「書物の破壊の世界史」を読んでいて、こういう日記にも意味はあるのだと思ったので、ニュースについてコメントしたり内容にも気を遣おうと思う。今年も毎日コロナについてコメントしていれば、さぞかし面白い日記になっただろうに。とりあえず、今日の分からはちゃんと日記つけます。

  1. 肝は「できる限り」。普通に1ヶ月つけないこともある。 []
  2. 語弊がないように念の為補足しておきますと「私の仕事において」です。世の中にはリモートワークが成り立たない業務もあるのは重々承知しております。てか「出社しないとできない業務=郵送物系」をうちのチームも抱えておる… []

河鍋暁斎展&桃山展

2ヶ月ほど前に大津絵展を一人で見に行き、大津絵ファンの母に「図録を買ってくれ」と言われていたので1冊買っておいた。それをたまに眺めて楽しんでいたのだが、先週末に母と話したところ、「図録を買っておいてくれ、というのは「母の手元に置く1冊が欲しい」」という意味だったということが判明。私も自分の行った(そして気に入った)展覧会の図録は買って手元に置いておきたいタイプだし、母の性格上、確実にこれから毎日1回は「大津絵の図録…」と言われるし*1、そりゃかなわんので調べたところ、まだ美術館には在庫がありそうだったから、すわ!と今やっている河鍋暁斎展に行ってきた。今回は母も一緒。

この河鍋暁斎展、コロナ禍もあり、元々企画として出てはいたが急遽実施が決まった「下絵」や「スケッチ」ばかり集めたものである。我らの内情としては大津絵の図録のおまけ気分だったのだが、これがなかなか面白い!河鍋暁斎は幕末〜明治期の画家で、狩野派の元で修行。「枯木寒鴉図」は当時百円で購入されたり、その場で注文を受けて素早く書く書画会でも人気者で、富裕層に好まれていた。そのせいで絵日記はまとまって残っていない。*2果てはお雇い外国人ジョサイア・コンドルも弟子入りするわ、一緒に日光に写生の旅へ出るわ、交友関係もなかなか広く、また弟子には乞われると絵見本を描いてあげたり、多分結構楽しい人だったのかもしれない。伝記を読んだことがないので、実際のところはわからないけれど。錦絵や滑稽本や教科書の挿絵、団扇のデザインなんかもしているので、大衆にも知名度があったのだろう。娘が父親の絵のフォローをするのなんかは北斎に通じるものがありますな。

で、肝心の絵について。下絵なのでまず、墨で人体(裸)であたりをつけた上に、朱で着物を描いていたり、骨格を意識したり、踊る男女のポージングを練習してたり、気に入らない部分には半紙を貼り付けて描き直したり。母は純粋に感心してたのだが、私は「これ…コミスタ…」という考えが頭の中を何度も駆け巡った。「これ、レイヤーじゃん」「これ、デッサン練習じゃん…」書画会についても、「これ、スケブ…」って頭をよぎる。絵を描くというのは、今も昔も変わらないんだなぁ…という意味で、なかなか面白い展覧会でした。

その後、私は続けて桃山展へ。こちらは明日までだったのでついでに見てきました。見所がありすぎて、かえって語れない。本の中でしか見たことのない、有名な絵や屏風の本物がバンバンと怒涛の勢いで展示されていて、「あ!これチャレンジでやった」ならぬ「あ!これ教科書載ってた!」って感じ。大きなものも多かったので、近寄ってみたり遠のいてみたり。時間が遅かったせいか、意外と混んでおらず、それもあって満足度は非常に高い。強いて言えばお茶碗の飾る台が高いので、内側が全部見えなかったことくらい。もうちょっと低めの台にしてくれればいいのに…

と、こんな感じで今日の美術館巡りを終えたのでした。来年以降、コロナの影響でますます国内所蔵品が出回るんじゃないかな、と予想。今回の河鍋暁斎展みたいに、面白い切り口のがあれば、また是非行きたいと思う。

  1. 「ボケたら1日3回だよ」By母 []
  2. 欲しがる人が多かったらしい。 []

徒然日記

 

今村均の本を読んだ。私はまぁ、平均ちょい上に昭和史は詳しい方だろうけど、かといって陸軍大将を全部覚えてるとかそういうわけでもなく、要は著しい知識の偏りによって、今村大将のことはそんなに知らなかったんである。実は私の祖父はラバウルで終戦を迎えており、そのことを数年前に話の流れで知り合いの某公務員に言ったら「聖将今村均!」って言ってたのがイヤに記憶に残っていたのだ。もちろん祖父から今村大将のエピソードを聞いた、なんてこともない。ので、今回本を手に取ったのは「たまたま本屋で棚置きされてた(終戦特集だったかもしれない。)」「祖父がラバウル帰り」「聖将発言」という、てんでバラバラの3つの理由による。聖将って言ってますけど、どんなもんじゃいという心持ち。

読後の感想としては「まー、こりゃ聖将言われますわ」という感じ。もちろん、現在の価値観と照らし合わせると、考え方が古い部分も多いし、西洋人と現地人への態度の違いもたまに透けて見えるのだが、当時の状況、しかも現在における「日本陸軍」に対する意識を鑑みるならば、なかなか立派な人だと思う。こんな偉そうな書き方すると怒られそうですが。また、何故だかところどころ「リーダーシップ論」に読めないこともない。やっぱりこうじゃないと部下はついてこないよなぁ…って。裁判のくだりについて、多少読むのに踏ん張りが必要な部分もあったが、大筋気軽に読める上に、当時のインドネシア独立の雰囲気もよくわかる。期待度の割には面白かったです。

因みに今読んでいるのは白川静「字書を作る」。これはもう完璧に歯が立たない。もうちょい入門編な本を買えばよかったと反省中。その次には図書館で借りたブルース・チャトウィンの伝記。その次は…?この前買った本のどれかか、今日買った「独学大全」かな。

仕事について思うことはあるのだけれども、まだ言語化できる状態ではないのでまたいつか。このブログに投稿したら、そのままnoteに投稿できないものだろうか?最近あちらを更新していないので、そんなプラグインがあると楽で良いのだが、そもそもブログとnoteは意味合いが似ているから(競合してるようなもんだし)難しいかな。この後探してみます。*1

  1. 調べたけど、やっぱりなかった! []

ジジェクのパンデミック論

 

ジジェクの本には全く歯が立たず、修行気分でとりあえず読みきった過去があるので、戦々恐々しながら読み始めたのだが、一部「?」はあったもののなんとかいけた。薄かった上に、時事問題だったのが勝因?なのか…とはいえ、時事問題ゆえか、それとも私がやっぱりジジェクの主張を理解できていないのか、文章としてまとめることができないので箇条書きで気になった点を挙げておきます。

  • 中国政府は人民を信用せず、人民も政府を信用していない。他の国においてもソーシャルメディアによる陰謀論、フェイクニュースなどの影響で、国民が政府を信用していない。これでは感染は止められないだろう。
  • 新自由主義では個人の内に階級がある。つまり、自分で自分を搾取している状態。ただし、同時にパンデミック下においては「1)西側先進国での自己搾取の労働」「2)第三世界の疲弊させる労働(製造業など)」「3)介護職やウェイターなど人をケアする労働」の3つの労働があり、2、3は昔ながらの「階級」でもある。
  • ヨーロッパを襲う3つの嵐は「1)コロナウィルスによる身体的影響(感染、隔離、死など)」「2)コロナウィルス拡大による経済的影響」「3)シリアで起きている暴力の嵐」であり、ロシアとトルコは石油だけではなく、難民の流れもコントロールしてヨーロッパに外圧を加えられるだろう。
  • 今現在は難民はコロナウィルスと結びついて迫害を受けていないが、万が一それらが結びついたら「科学的医療的な理由」で難民排斥を正当化できてしまう。
  • コロナ後の通常はコロナ前の通常とは違うだろう。ハグや握手をする余裕があるのは自己隔離できる特権階級のみで、一般庶民は「仕事に戻り」、ウィルスと生きていくことになる。
  • 「個人の責任」を重視するあまり、経済や社会制度をどう変えるべきかを見えにくくするならば、それはイデオロギーとして機能している。
  • マスクや人工呼吸器、ワクチンなどの分配、隔離施設の確保、失業者への手当てなどは市場メカニズムから離れて行う必要がある。これがジジェクのいう「共産主義」の出番。

個人的に面白かったのが「新自由主義では自分の中で階層闘争はじまっちゃってる人もいる」という部分。言われてみれば確かにね、と思う。それから「難民とコロナが結びついたら〜」部分に関しては、当初のアジア人への暴力事件など考えると既に危ない兆候があるのかもしれない。まぁ、アジア人に対しては、「コロナをうつされるかもしれない恐怖」から「コロナを発生させたこと(結果自分たちの生活が変わってしまったこと)に対する苛立ち」に暴力の理由が移行しているかもしれないが。

何れにしても、コロナで人的交流は減っているし、その分フェイクニュースなどに晒されやすくなるし、経済的影響はデカイし、新しい生活習慣は馴染めないし…でダークサイドに落ちやすい状況ではあることは間違いないでしょう。そうならないために、なにかわかりやすい処方があればいいのだけど、そんなものはないのがまた辛いところですね。

赤子と私

リモートワークというのは家でなくてもネットとPCがあり、ちゃんとした環境であればどこでも仕事出来るということだ、と気がついたのはお盆の時だった。要は実家で仕事すればいいじゃん、ということである。その応用で「妹宅で仕事すればいいじゃん」と言われたので、0歳児の赤子のいる、しかも運悪く旦那さんが出張中でワンオペ(しかもしかも、あろうことか引っ越し翌日)の妹のうちへヘルプしに行ってきた。もちろん自分の仕事もしつつ、である。当たり前だが妹の家は私の家ではない。窓の外の車の音や天窓に打ち付ける雨の音以外はほぼ無音に近い環境で日々過ごしているところに、自分以外の人間が2人もいる、テレビもついている、風呂の温度は赤子仕様でぬるめだし*1、気ままに本読めないし、てか、本1冊しか持ってきてないからないし、夜泣きで起きるし、ノートパソコンのモニターは小さいし…まぁそういう細かいのが積み重なって疲れてしまった。実家も似たようなものなのに、こうはならないんだから、やっぱり実家は実家であって、妹の家は「他人の家」なんだろうな。まぁ、仕事はきっちりやったし、段ボールはほぼ片付けたし、赤子の面倒もみたのだから、及第点はもらえたはず。大体私は赤子に好かれるタチなのだ。姉妹だから声が似ているといった理由もあるだろうが、単に私が子供っぽいだけなのかもしれない。家族には「薄汚れた大人にはわからない魅力があるのよ!」と強がってみたが。

で、肝心の赤子。小さい子を見ると「この子は自分を自分として認識しているのだろうか?私を他人として認識しているのだろうか?」と考えてしまう。「私を他人として認識する」というのはすなわち、「私を自分でないと認識する」ことだから、結局は「自分(とそれ以外)という認識がある」かないか、なのだが。鏡にうつったモノが自分と認識しているかどうかという動物実験の結果をたまに見かけるが、鏡にうつるのはあくまで己の肉体で、その肉体の中(?)に潜む(?)精神、意識、魂。そう呼ばれるものがいつ認識される(わかってもらえる)のだろう?間違いなくそれらはその子の中にすでにあるはずなのだが。もしかして、これは年齢に関係なく、子供でもわかってるならわかっているし、わからないまま死ぬ大人もいるということなのかしら?他者との関わりを通じて徐々に・・・なら、現在の一般的なケースでは生まれた瞬間から他者まみれだし、まさか学校みたいに年齢で決まるもんでもあるまい。せめて自分の場合はどうだったかを思い出そうとするのだが、全く思い出せないのはもどかしい限り。

ついでに。前にも書いたが、こうやって小さい子の面倒を見ると「私には母親は無理だな」と思う。「産めば意識が変わるよ!」という人がいるが、高々「持ち込んだ本は書き込みながら読みたい。書き込みながら読む場合は風呂で読めない。故に風呂の中で読む本がない。(風呂本は重いからって持ってこなかっただけ。)」ってことで、うーうー言う人間が365日人の面倒をみれると思いますか?自分の人生の面倒見るのにもこの調子なのに、人ひとり、育てる勇気なんぞ持てません…

 

 

久しぶりに池田晶子読んで、「これこれ!これーーー!」ってなったのでこんなことをつらつら書いてみた。やっぱりたまには読まないと、腐るわ。色々と。

  1. というより、私が熱めが好きなんだと思う。 []

徒然日記

茶人たちの日本文化史」を毎晩、前日の寝落ち寸前〜当日読んだ分をノートにまとめる作業をやってみた。これはこれで楽しい。ただ、「どのようにまとめればスッキリするか?」を試行錯誤しているので、なんとも取り留めのない状態になってしまい反省。ノートの2ページ目に突入した時は、余白が多めになりました…こうすれば次回似たような話題を読んだ時に追加で(色でも変えて)書き込みできるはず!

なんだが、次に読んだ本がなんとこれ↓。

 

本の余白に書く「マルジナリア」についての本。ちゃんと沢山書き込めるように、余白多めに製本されているし、内容が滅法面白い。夏目漱石は「マルジナリア狂人」らしいが、流石ツッコミも冴えていて「馬鹿ヲ云エ」「ナンダコノ愚論ハ」「コンナ長イ独言ヲ言フ者ガアル者カ」「ソーデスカ」などなど、容赦がない。私も本に書き込みはするタイプで、松岡正剛リスペクトのパイロットVコーンを本と持ち歩くようにしている。(なお、Vコーンは肝心の松岡正剛の「千夜千冊エディション(文庫)」だと滲むのだが、なんとかなりませんかね。角川ソフィア文庫様。)とは言え、線を引くことは多いが、余白に文字を書き込むことはあまりないので、まずは「ソーデスカ」レベルのツッコミからマスターしていきたい。…って、あれ?これノートいらなくね。まぁ、母上や図書館で借りる本を読むことも多いから、いいか…因みにこの本を読んで、「世の中にはグレーのマーカーがある」ということを知った。明日買ってみよ。

あと、その前に読んだ「へんちくりん江戸挿絵本」って本の「おわりに」が中々考えさせられるので引用しておきます。長い引用ですみません。

この時代には、出版と書物が普及したことによって、身分、職分よりいも知識や教養の程度による、ある意味で新たな階層的再編成が起こりはじめ、学芸、文芸その他の文化的活動とのかかわりの程度が出自で決まってしまうような状況ではなくなりつつあったのです。

P233

この時期に新たに書籍に触れるようになった読者たちは、こういうふざけた作品にも、娯楽だけではなく役に立つ知識や情報、ためになる教訓や教養を求めたようです。そんな読者たちを前に、それまでにあった自由な発想のうえに教訓が添えられる様をみてきました。(中略)

それでも、その大衆化の時代において、既存の知の形式を基盤としてそれと戯れるような読み物を求める層の裾野が広がったことの意義は見逃せないでしょう。当時の大衆的読者の需要を単純化していえば「おもしろくてためになる」ということになりますが、そのおもしろさを構成する多様な要素のうちに、既存の知識、知の形式を土台とした戯れが含まれたことで、その読者たちの知や学問への憧憬と意欲が喚起される面もあったことでしょう。

P234-235

自由な発想でさまざまな知識やその形式に戯れかかることがさかんに行われてきたにもかかわらず、十九世紀を迎える頃には、自国の神話や歴史という自分たちのアイデンティティにかかわる記述が大衆化のなかで絶対化されていく傾向を確認しました。いっぽうその外側の世界については、真偽を問わず怪しげな情報が積極的に再生産され、受容される状況が生まれたのもみてきました。(中略)

こと自国の歴史の問題になると、遊びが遊びでなくなり、笑いとして理解されなくなるということがすでに江戸時代に起こっていたということを指摘しておきましょう。

P236

…ううむ、どっかで聞いたことのある話だな!途中から教訓が追加されるのは大津絵の流れでもあったし。

全ッッッ然覚えられないの!

昔の私はエラかった…と遠い目をしてしまうほどに、最近の私は物覚えが悪い。多分、本はよく読んでいる方である。分野はバラバラとは言え、長いスパンで考えるならばマイブームは何度か周回しているし、1分野1冊みたいな読み方もしていないので、「覚えられないのは何かがおかしい」と薄々感じている。例えば、すんごい集中して読んだ二・二六事件の青年将校たちについて(影が薄いのは除いて)ぼんやり覚えている。…が、これが「統制派vs皇道派、そして昭和史における影響」ってなると、あ〜うぅ〜〜と頭を抱えて「永田、東條、荒木、真崎…ん?石原の立ち位置ってなんだっけ?統制派が強くなって…なって…で?具体的にどの出来事につながっていくんだ?」となる。ついでに言えば、バーデン・バーデンって単語は語呂が良いので覚えているが、そこにいた残り2名がさっぱり出てこないのだ。昭和史については20冊は余裕で読んでいるはずなのにっ!!と、歯軋りしても、どうやっても岡村寧次と小畑敏四郎の名前は出てこない。*1

とまあぁこんな感じで、いかに自分の頭の中身がイケていないか?は自覚済みなので、いい加減次のステップに進まなければ、人としてダメだろう。なぜイケていないのか?そこを突き詰めるに「(だいぶ怪しいが)点では覚えているのだから、線と面をつなげればいい」ということに思い至った。と言うより、読むスピードがそこそこ早い分、目についた点を線や面にしないまま、垂れ流して次に進むから身につかないのだ。となると、点を拾って線にしていく他あるまい。幸い、いまだ大絶賛リモートワーク中なので定時後の時間は空いている。そこで前日寝落ち直前〜当日読んだ本の内容をメモしていけば、少しは頭に残るのではないか?

思えば大学時代の学習も、「予習でテキストを読む→授業でノートにまとめる→試験勉強のために読む→試験で記述する」という「読む→書く」のサイクルだった。だから多分、「第一次世界大戦と第二次世界大戦は一つの戦争とみなすべきかどうか?」とか「テロを実行するならば、大量破壊兵器のどれが一番効率的か?」とかそういう試験の内容をいまだにちゃんと覚えているのだ。このデジタルのご時世に手書きもなんだかなとは思うのだが、小学校5年生(つまり25年近く前)に手書き丸写ししたnewtonのイオ・トーラスについてはガッツリ覚えているのだから、私には手書きが向いている。あと、囲ったり線を引いたりするのはデジタルだとやりにくい。

…と言うことで、読書メモやってみます!という宣言でした。6年前になんか偉そうなこと言ってたけど↓、これもう無理。だって、覚えられないんだもん。*2

  1. 今、調べた。相沢三郎が永田鉄山を斬殺した状況は(無駄に)しっかり覚えているのに… []
  2. とは言え、多分「THEマインドマップ」みたいなものにはならないと思う。そこまでの根性はない。しっかし、本当に偉そうだな。マインドマップに親でも殺されたのか、私は。 []

人を育てる意思のないやつはマネージャーなんかやめちまえ!

…と思うことが最近多いのですが、どうでしょう。うちの会社はマネージャー職と専門職に分かれてて、それぞれに等級があるのですが、マネージャー職に進むということは専門職とは違い、「部下を育てる」ってのも仕事のうちに入ってくるわけです。そっちの道に進むということは、「育てる」をしなきゃダメなはずなのです。なのに、しないやつがいる。その上、人が手塩にかけて育てた部下を掠め取ろうとする。もし異動先が部下のキャリアにとってチャンスになるんだったら、そりゃ快く送り出しますよ。でも残念。あなたのところは、そうじゃない。本当にどんだけツラの皮が厚いんだ…

…と以上、毒吐きでした。でも本当、マネージャーと呼ばれる人たちは、自分の部下を大事に育てた方がいいよ。そして間違っても(自分は部下を大事にしていないのに)人様が大事に育てている部下を欲しがっちゃダメだよ。運悪く&抵抗虚しく大事な部下が異動し、潰された日には…毒を仕込まれる覚悟を持つんですな。

歴史は縦横の視線で眺めないとね、と言う話+α(読書日記)

今回も簡潔に。

 

半藤一利の昭和史シリーズ完結篇!とのことで、読んでみた。実は「昭和史(戦前)」と「昭和史B面」は読んでいるのだが、「昭和史(戦後)」はまだ読んでいない。いつか読もう…というのは、さておき。当たり前といえば当たり前なのだが、意識しないと中々できないことに「歴史は横で眺めてみないとわからない」ということがある。日本国内に限っても、政治的な出来事と文化的な出来事、これは結構真面目に考えないと、頭の中で一つに融合しない。他国と自国の歴史も、出来事としてはそれぞれ把握できても、「どのようにそれがつながっているのか?」というのは、よっぽどメジャーなものでもない限り意識されないのではないか?(もしかして、ちゃんと意識できていないの私だけ?)そういう意味で、この本は「横の繋がり」を意識するにもってこい。ちょいちょい挟まれる現在(安倍政権)への言及も、縦の糸のなんというか、色合いのパターンを意識できる。

個人的にはドイツが対ソ戦略の一環で日本を取り込もうとする中で派遣されたヒトラー・ユーゲントが来日。元々年齢層も10代後半と高めでその分訓練も行き届いている彼らのおかげで、小国民は軍隊式で鍛えられることになり、散々迷惑した、という本音が面白かった。

 

母の本棚から拝借。より短く軽めである「江戸の備忘録」と続けて読んで面白かったのだが、「殿様の通信簿」のほうは読んでいて、違和感が残った。中身にではない。文体にである。どこかで読んだことのある、この癖のある文体。思いあたったのは

ー司馬遼太郎

であった。