人間のうちの悪について

家の近所に東電の大きなビルがある。10年前に住んでいたとき、その1階の窓口がやっていたどうかは覚えていない。そして4年前、震災後に再びこの地に戻ってきたとき以降、原発事故のせいか、それとも他の理由からかはわからないが、ビルの入り口の大きなシャッターはいつ見ても閉まったままである。上階は電気がついているから、何かしらの業務は行っているようだが、1階の入り口には福島原発の状況やお詫びといったお知らせが貼ってあるのみ。前を通るたびになんとも言えない気分になるのは何故なのか。

さて、そんなわけで原発の話から始めたいと思うのだけど、原発「事故」に関しては、確かに東電やら政府やらの至らなさや慢心があったのだろうと思う。が、原発そのものは悪なのか?汚染の時間的空間的影響を考えるならば、まぁ、悪なんだろう。では、なぜ私たちは原発を何基も作ったのか?原子力エネルギーの破壊力は、70年前に嫌という程体験したじゃないか。そのあとにも何度も身をもって知ったはずなのに、爆弾だけではなく、発電所の事故も何回も起こっているのにそれでも手放さなかったのはなぜか?

これは個人的な意見だけれども、人間というのはパワーを求めてやまない生き物なのだと思う。ここでいうパワーは人や社会への影響力、そして物理的な力。話を整理するためにここでは物理的な力に限っていうけれど、有史以前から人は、人の力、馬や牛の動物の力、蒸気の力・・・と利用する力の強度を強めてきた。同時に力を効率的に利用するために、車輪や機械を発明してきた。それもこれも、より楽により快適な生活をするため。今、机に座って、この時間(夜の10時)に、パソコンでこの記事を書くのに、どれほどのエネルギーが必要なのだろう。「私はこの生活を手放せるのだろうか?」そう考えると「できない」と思う。まぁ、もう少し早く寝て消灯時間を早めるのはできるかもしれない。でも、絶対に許容できないラインはすぐ近くに有るはずだ。今のこの暮らしを捨てて、山奥で薪を割って暖と明かりを取るなんてできない。多分これは他の人も同じだと思う。そして、この快楽にまみれた生活を支えるためのパワーがどこから来ているのか、みんな無自覚だったし、おそらくまた無自覚になっている。人は無自覚にパワーを求めるものなのだ。その無自覚が原発を何基も建設させたのではないか?

ところで、原子力は戦争における武器として利用することをそもそもの目的として研究が進んだのだが、ではその発見の罪は、発見した科学者とそれを利用した政治家だけに帰せられるものなのだろうか?私個人としてはそうではないと思う。人間全体の「無自覚に力を求める」性質、その性質によって、原子力が発見されなかったということはないはずだ。戦争で研究が加速したことは否めないが、いずれ誰かが爆弾も原発も作っただろう。同様に、この先原子力以上のパワーを生み出す爆弾や発電所も作られるのだろうと考えている。

こんな風に、非常にマイナス思考ではあるのだけど、原発だろうが原爆だろうが、その存在を罪とするならば、その責任は一政府や一企業ではなく、人間すべてにあるのだと私は思っている。前に、人間というのは何か超越したものから、いろんな方向に向かって続く合わせ鏡の先にある、と書いたことがあるけれども [1]正確に言えば、「それぞれの人間から出発した合わせ鏡が最終的に一つの超越したものに繋がる」。矢印が逆ですね。、「善」だけではなく「悪」についても同様に、人間全体の根底に共通のものがあり、それが各人の中に程度の差はあるものの、何かしら残っているのだろう。

昔、父は「自分の胸に手を置いて1分も考えれば、性善説など取れない」と語った。「然り」と思う。

 

References

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1 正確に言えば、「それぞれの人間から出発した合わせ鏡が最終的に一つの超越したものに繋がる」。矢印が逆ですね。

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