神仏に願いを託す
生まれて初めて、神仏(今回は観音様)にお願いしたことが完全にかなったようだ。自分としては信心深い方ではないと思うのだけど、お社とか人のうちの庭にある氏神様の祠とか、道端の水子地蔵とか [1]一応ちゃんと書いておきますけど、水子地蔵にお世話?になるようなことを、したことはございません。、果ては庚申堂にまで、歩いていたり車の中から見えたりしたら、会釈をすることにしている。信じるというより、敬意の表明のつもりなんですが、これだけ節操なく、あっちこっちにしているということは、やっぱり信心深いのかしら?神無月に神様方が一同に集まられた時、「なんかとりあえず会釈しとけって女いるよね。なにあいつ?」と話題になれば幸いである。
さて、話を元に戻すけれども、会釈する時は特になにも考えていなくて、本当にペコリと頭を下げているだけなのだが、自らお寺や神社にいった場合は、キッチリあれこれお願い事をしていた。「どうか志望大学に受かりますように!」と思いながら、宮島の大聖院の願いが叶うというお坊さんの像?の頭を撫で回したことがあるし、数年前は同じく宮島の厳島神社で「今年こそ結婚できますように!」とひたすら祈った。が、今まで一度も叶ったことはなかった。
でも、今回私がお願いしたことは叶った。それはなぜなのかと考えてみたが、最初に思ったのが「あのお寺、閑散としてたから、きっと割合的に叶いやすいんだろう」という極めて失礼なこと。神様仏様にとっても正月に初詣で何万ものお願いを聞くよりも、残暑厳しく、だれもこないタイミングでされたお願いの方が印象に残るのかもしれない・・・と。100万の従業員の全てを覚えられないが、10人の会社なら全社員覚えられるというのと同じノリですね。
で、次に考えたのが、「自分のことをお願いしなかったからだ」ということ。滅私の心で祈ったから、聞き届けて下さったのかもしれない。ならば、今後も自分のことを祈っているようではダメなんである。そして、妹たちを脅して「お姉ちゃんが幸せになれますように!」と祈らせても、多分やっぱりダメだと思う。ほかの人が純粋に私の幸せなり何かなりを祈ってくれなければダメ。そのためには、そう祈りたくなるような人にならなくてはならず、それは人としてなかなか難しい道のりだ・・・となると、自分を自分で幸せにする必要が出てくる。自分の道は己で切り開き、他人の人生の安寧を祈る、そういう風に世の中はできているのかもしれません、というお話でした。
References
| ↑1 | 一応ちゃんと書いておきますけど、水子地蔵にお世話?になるようなことを、したことはございません。 |
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自分以外の誰かのために本心から祈ることができる時点で、あなたは誰かからも心から幸せを願われる存在なんだと思いますよ!
2016年という年が良い年でありますように!!
なんだか言わせちゃった感がありますね(笑)
とは言え、この結論に至ったのは今朝でして、今年の初詣では「とある人が幸せになりますように。みんなが幸せになりますように。」に続き、「ついでに私も幸せになれれば、いうことありません。」とちゃっかりお祈りしてしまいました。
自分の幸せは、自分がなにに幸せを感じるか、私の基準次第だと思います。雲ひとつない空の青さに、素晴らしい家族と友人を持っていることに、食べ物や寝るところに困っていないこの環境に、そういったことに幸せを感じ、感謝出来れば、私は間違いなく世界一幸せなのです。
どうかあなたの一年も幸せの連続でありますように!