六本木で坊主に囲まれて聞いた話

まず九州の地震で被害に遭われた方へ心からのお見舞いを申し上げます。

で、こんなタイミングで不謹慎かなと考えたのですが、だからと言って何もかもやめる必要はないと思ったので(だって、この考えって突き詰めて考えると、「日本で何もなくとも、シリア内戦で亡くなった人がいるから、生きていること自体不謹慎」ってなりません?)、通常運転に戻ります。

 

さて、昨日は先日の予告通り、六本木で禅のイベントに行ってきました。三部に分かれてのリレートークで、週末の六本木ヒルズに袈裟や作務衣姿の坊主が大集合していたので、買い物客や観光客はぎょっとしてました。ま、当たり前ですけど。参加者は男性女性年代に特に偏りなく(といっても20代以下はあまりいなかった様子)、お寺の檀家さんと思われる方もちらほら。部によっては、その辺のマンションに住んでるのかしら?と思わずにいられない成金っぽい人や、意識高い系(男性4名全員Mac持ち)がいましたが、まぁ、彼らと後ろに控えている雲水の違いよ・・・!清浄さってのはやはり日々の生活により、その人の雰囲気に出るのかもしれません。肝心の内容は箇条書きで。

 

・どの部も最初に黙祷、最期に座禅。熊本地震もあり、「揺れたら六本木ヒルズの係員の誘導に従って避難してください」と注意事項あり。なお、第一部の講師である横田南嶺老師(臨済宗円覚寺派管長)からは「最悪の事態になっても、これだけ坊主が集まっておりますので、皆様極楽に行けますよ」と、ありがたいんだか不謹慎なんだか、よく分からない保証をいただきました。

・平常心=造作のない心。当たり前の暮らし。

・お茶(お抹茶)=粉のみ、茶葉などのゴミもなし。究極のインスタント飲料。確かに、お茶を「普通に日常の中で」点てる暮らしというのは、精神的に良さそう。一通りの作法は知っているし、ポットでもできるのだから、お茶碗、茶杓、棗あたりを揃えておけば家で十分できそう・・・と思った。実家に余ってないか訊いてみよう。

・侘び=正直にあるがままに奢らぬ様

・禅=本来の自己になる。独服=自分のために立てるお茶。→文化的な部分だけではなく、精神的(哲学的)共通点がある。

・足元を見よ(「照顧脚下」)→西洋でいうmemento moriと同じ思考か?(これは私が話を聞いていて思ったことです。)

・西洋にはZから始まる言葉がないので、Zenはカッコよく聞こえる。

・「業」と「罪」。自分との関わりの違い。誰が最期に自分を裁くのか?自分自身か、神か。

・精進料理は食べる側ではなく、作る側の「精進」である。畑で野菜を育てたり、即ち修行。

・「くせ」とは自分ではない。そう気がつく自分とは何か?

・禅は突き詰めると「自分とは何か?」という問題の探求。それで人を救うのが坊さんである。

・禅の修行は日本的。メソッドとして確立されたものに加えて「目で盗む」、「和合(他者への思いやりや気遣い)」など。

・他者への思いやりを突き詰めると、自分の中の自分の割合が減る。(他者の割合が増えるから。)これぞ「無心」?

・世界平和については、まず、自分の中の平和!が禅の姿勢。日本人が日本で、ということではなく、どの国の人も、自分の中の平和を追求できるよう広めていくこと。

 

こんな感じです。この夏は禅について、いろいろ勉強してみようと思います。

 

最期にどうでも良いおまけ。とにかく、六本木ヒルズで坊主頭に囲まれて「清少納言は「坊主は声!」と言っていたが、ほんとだわ〜この優しそうな声・・・」とちょっぴりうつらうつらしてましたら、電話の着信が・・・ちらっと発信元を見たら会社の本部長からで、一気に現実に引き戻されました。本部長直々に休みの日に電話してくるというのは大抵の場合、ロクなことではありませんからね。「今出れません。六本木でお坊さんに囲まれています」と確信犯的に状況をメッセで説明し、とはいえ、やはり地震に関連しての呼び出しだったので、イベント後出社。案の定「六本木で坊主と合コンしてた」ということになってました。ちゃんと説明しましたが、そしたら「お前はどこへ行くつもりなのか?」ですって・・・

 

■追記 2016年4月18日■

清少納言先生は「坊主は顔!」とおっしゃってました。声じゃなかった。でも、顔も良い方でしたよ・・・

 

Leave a Reply