この本のいう本は「えらーい学者が書いた本」か「古典」だけらしい

私は詩集でもないのに、ポエムチックに書かれた本が心底嫌いなのですが、この本もそのお仲間でした。なぜ買った?私よ??まぁ、ポエムチックな文体も最初の方が特に酷くて、だんだん落ち着いてくるんですが、「やっと比較的まともな文体になったわ」と思ったら、今後は内容がブッ飛びはじめました。 [1] … Continue reading

インターネットについて、3つの問題を挙げてるんですが、その1が「中心がない」ということ。中心がないから自分本位(の検索)になってしまうと言いたいらしい。古典を中心に枝葉の本が生まれているという主張も前の方に書かれてたので、これはまぁわかる。その2がブッ飛び。「ネットはデータ=情報であり、メッセージがない」らしい。本にはそのメッセージがあるらしい。そうか?本当にそうか?その3に至っては意味がわからなかった。「ネットは現在に縛られていて、未来がない」らしい。未来は本を読んだ人間にしかできないんだと。結局、最後の最後に書かれた以下の文章に、筆者の全ての態度が凝縮されているんだろう。

こんな学者がどの時代にもおおぜいいて、一定水準の本をうみ出しています。だから、本は「頭の栄養」になるのです。(P243)

つまり、学者の本(と、素晴らしい小説)以外は、「本」ではない、と。まぁ、正直、私の大きらいな自己啓発本とか携帯小説単行本化とか、中身があるんだかないんだか、よくわからない本も世の中にはたくさん出回っている。だが、それと同じくらい学者の手による意味不明本も多かろう。この本自体がその典型だ。最初の方は「学ぶことは、生きること」だなんてポエムチックに語りかけて、ろくに「本」の定義もせずに、最後に「学者の本を読みましょう」じゃ、馬鹿らしい。時間の無駄というほど時間をかけずにサッサと読めたのが唯一良かった点ですかね。それでは、単なる情報でメッセージがないと言われるネットの文章から一言。「この本は読むだけ無駄!」

 

References

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1 いや、最初からおかしかったか・・・論文の基本的アウトラインについて述べている割に、同じ章のなかでポンポン話がとぶし。特にどこにも書いてないが、この本、講演会かなんかを起したものなんでは?

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