合わせ鏡とカール・バルトとブラックホールの特異点と

最近あまりに暑いため2階 [1]普通の階段がついたロフトという表現が正しいかもしれないで寝れず、エアコンをかけたリビングのソファーで寝ているため寝る前の読書というのが出来ない状態です。そのため、スピートが少々落ちているのが個人的に気になるところ。現在読んでいるのはウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」という本。表紙は真っ黒だし、なぜか天や小口部分が青く染められているし、「中世魔術大全」といったタイトルの方がしっくりくる見た目ですが、実際は文字も大きく、上下に大きく空白部があるため、意外とサクサクと進みます。読んでいて思うところが沢山あるので、それはそれで読み終わったときに改めて記事にする予定。

さて、今日帰宅途中に歩きながら考えついたことがなかなか良い表現だと思ったので自分で忘れないために、そして文章にすることで考えをまとめるためだけに、本記事は存在します。それが目的なことを、皆様努々お忘れなく!

元々、私は「人と人は分かり合えない [2]ただし、お互いの立場設定、環境とか趣味とか好みとか、を理解した上で、合意を取ることは可能」という持論の持ち主なのですが、そこには「人は自分のことさえ完全に分かっているのか怪しいのに、ましてや他人なんて」という前提があるんですね。更に、この前提の前提として「この世に主観というものはないんじゃないか」と考えております。つまり、「私はこう思う」と思った時点で、「こう思った私」と「私はこう思うと思った私」が分離するのでは、と。もっと言えば、「思うと思った」時点で主観は存在しえず、観察者の目線=客観が生まれるのではないか?と思うのですよ。となると、私が私と思っているものは何なんだろう?「これでは私が私を分からない状態」ではないか?と…勿論、私は私なので、どちらの私も私に非常に似通っているのですが、存在としては別物と言った方が良さそうなんです。ただ、この理論ですと「私が私と思っている私を私が思っている」といった感じでどんどん私が分離してしまいます。この状況、まるで合わせ鏡じゃないか、と思いついたところが最初の一区切り。

で、合わせ鏡ですが、手前の姿ははっきりしているものの、遠くにいくほど小さく判別不可能になっていきます。数学的な正しさは分かりませんが、対数グラフのように、限りなく近づくけれど決してイコールにはならない、そんな感じで合わせ鏡の先の先は0にはならないけれども限りなく点に近づくのではないか?(ここで重要なのは決して点にはならないことです。)現実の合わせ鏡の場合は、遠くなればなるほどうすらぼんやりしてしまいますが、私という合わせ鏡の中では、(実際は、タマネギのように私から私を剥いでいく作業になるので)、遠くなればなるほどより根源的な何かに近づくのではないか。その根源的な何かが神だとか理性だとか、いわゆる「超越した何か」何じゃないかと。そして、合わせ鏡の限り無く近づくけれど、イコールにはなれない「点」こそが、超越した何かと私を区切る特異点だろう。ここまでが2つ目の区切り。

特異点といえば、元物理学科からすれば、ブラックホールの特異点なのですが、以前同様に「これは特異点だなぁ」と思った経験が、カール・バルトの「ローマ書講解」を読んでいたときにあったんですね。上巻のP99なんですが

われわれはまず人間を高ぶらせ、それから神との間の距離を見失うのである。キリストの外における、キリストなしでの神関係の中枢は、奴隷の不服従である。われわれは、ただ神についてのみ考えることを許されている事柄を、われわれ自身について考えるからこそ、われわれ自身について考えることより高い次元で神について考えることができないのである。

という箇所で、「つまりキリストが神と人間の間の特異点なんだな」と確かに思った記憶がある。おそらく、今日考えた末に出てきた特異点理論は、以前の考え(神と人間をつなぐ特異点がキリスト)というのを前提にしているのでしょうが、哲学にしても、神学にしても、物理学にしても [3] … Continue reading、「特異点」という構造が共通しているのはなかなか興味深いところです。ここで3つ目の区切り。

さて、いままでは「私を突き詰める」ことで、特異点に至ったのですが、逆に特異点から私に至るまでを考えてみます。特異点は神とか理性とか、超越したものですので、これは唯一無二、だれから進んでもおなじ点に向かうと思うんですね。イメージでは一つの点に向かって360度から人それぞれの合わせ鏡が続いている感じ。特異点側からすれば、出所は同じなので、本来であればもっと人間は似通っているはずなのです。ただ、残念ながら、人間の合わせ鏡は全てが全て平らで美しい訳ではない…特異点から出発してどこかの段階で少しずつ、それこそ伝言ゲームのように違ってきてしまうのではないかと。そして、そのそれぞれ微妙に違うゆがみ(ノイズ)によって形成されたのが「私が私だと思っている私」レベルの私なのだと思います。では、ノイズ(合わせ鏡の汚れやゆがみ)は何なのか?それこそ環境だと思うのです。文化や言語、家庭環境、学校環境、そしてある意味遺伝子、そしてそれに基づくこの体も環境と言えるはずです。

この辺まで考えたところで家に着いてしまったので、これ以上はないのですが、「人は超越した何かに限りなく近づくことは出来るけれども、同一化することは出来ない」、「同じ特異点もどきから出発しているが、ノイズのため一人一人が違うのだ」という結論を胸に「だから、すぐに『話し合おう(心の底から分かり合えるよ!)』っていう女は嫌いんだよ」とこの流れでこの結論かよ!と突っ込まれそうな本音を書いたところで、やめます。おやすみなさい。

  

References

References
1 普通の階段がついたロフトという表現が正しいかもしれない
2 ただし、お互いの立場設定、環境とか趣味とか好みとか、を理解した上で、合意を取ることは可能
3 宇宙理論における点については、長くなるし、いまいち理解に自信が無い部分もあるので今回は割愛します。宇宙創世だったり、宇宙の構造を考えると、「点」というのは非常に重要なポイントかと。

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