徒然日記

■池田晶子コンプリートまで・・・

去年の年末から「池田晶子、池田晶子」とうるさくて、しつこい私だが、実は購入した書籍は1冊のみ。これから絶対に買う!と決めているのは今のところ2冊、「暮らしの哲学」 [1]人にプレゼントしたが自分が持っていない・・・と「考える日々 全編」である。もしかしたら「無敵のソクラテス」も買うかも。つまり、残りは全て図書館で借りてるんですな。「犬の力を知っていますか?」を買った時に差し込まれてた著作案内によればその総数29冊で、内12冊を現時点で読み終わっていて、1冊読みかけで、3冊新たに借りて手元にある状態。あら、以外と少なかったな・・・まぁ、多分読まない本もあるだろうけれども、まだまだ池田晶子マイブームは続きます。だって、

 普通に人々が、男も女も、あたりまえのように子供をつくってゆくことを不思議に感じる。自分ではない別の人を、自分の腹の中でつくって出すなどというのは、とんでもないことではないか、おそるべきことではないか。よくみんな平気でいられるな。

あえて言うなら、その種の無自覚さが耐え難いというのがあるのかもしれない。「自分とは何か」を自覚することこそ精神の至上命題である。なのに、それはそれとして、それはとりあえず脇に置いといて、その意味ではたんに生物的な構造の促がしに従って、またぞろ「自分とは何か」と問い始めるに違いない別の精神をつくり出すというのは、なんというか、借金を返しもせず借金を重ねてゆくような、そんな心地悪さを感じてしまう。(「睥睨するヘーゲル」P87)

だなんて書かれちゃ、「そうなんです!姐御!!」みたいな気分になるでしょ?でもまぁ、姐御のようには突き抜けられない私は、どこかで妥協して子供を産みそうだけど。

 

     

 

■マメな神とズボラな神

八木雄二の「神を哲学した中世」によると

言い換えると、唯一の神は、無限の能力で宇宙の隅々に至るまで「まめに」仕事をしている、と見られていた。中世から近代に向かうと、個々のものは「相互の関係」で力を及ぼしあって動いているから、神がその力を使って動かし続ける必要はなく、ビック・バンのように「最初の一突き」で仕事はすべて済ませられるという理解に変わったのである。それが近代科学の誕生だった。「原因」は「関数」で表現されることになった。それ以来、原因は数式で表現され、わたしたちはその固有の実在を考えないで済むことになったのである。(P168)

果たしてそうか?「なぜその関数なのか?」を現代人は問わない、ということだろうか?そんなことはないと思う。例えばアインシュタインのE=mc2、これを使えば、星々の動きやなんやら、確かに説明はできるだろう。でもなぜ、エネルギーは質量と光速との関係で表現できるのか?それは誰も説明できていないのではないか?人間が認識できる範囲での宇宙においては、これで良いかもしれない。でも認識の外にあるものはどうなのだろう?この本では「中世の考え方と現代の考え方は違う!」と主張しているが、まぁ、それは確かにそういう部分もあるだろうけれども、でも読めば読むほど、中世哲学(神学)と池田晶子の親和性が見えてくるんだよね・・・中世の哲学からキリスト教風味を取り除くと池田晶子になる、みたいな。(もちろん、風味の取り除き方によっては、他の哲学者にもなるだろう。)所詮数式だなんて、人間の把握している世界のうちでしか正しくないのだ。だいたい、超越した存在が、そうそうズボラになってたまるか。

 

■その他今日の出来事

リーゼンフーバー神父様の講座、出てきました。クザーヌスについては前にもお話を聞いた気がするが、この数年、私の方も哲学やら神学やら勉強しているので、また新鮮な気持ちで粛々のノートを取れた。が、やっぱり声が小さかったな・・・Googleで「リーゼンフーバー」と検索すると「他のキーワード」で「リーゼンフーバー 声が小さい」と出てしまうほど、声の小ささは有名なのですが、マイクをつけていてもあまりの聞きとりにくさに、エアコンを消し、皆息を潜めておりました。でもまぁ、今日は聞き取りやすかった方なのかもしれない。リーゼンフーバー神父様にはどうも熱烈なファン?信徒さん?がいるようで、講座を逃さずに通っている方々が多数いらっしゃるが、そういう追っかけであると思わしきおじ様方が「今日はよく聞こえたから疲れなかった」と帰り道でしゃべっていた。

その後、用事があって銀座に出たのだが、銀座三越のコスメ売り場がすごかった。まぁ、立地がいいので、もともと土曜日に人が多いのは当たり前なんですけど、驚いたのはJo Maloneがフル回転していたこと。愛用している香水の残りが少なくなってきたため寄ったのだが、かつては店員さんと何分もダラダラ話を出来たのに、今日はそんなことしちゃ申し訳ないくらいの人だった。中国語(?)でも接客していたし、恐らく「この香りは中国では売っていない」といった趣旨の中国語のポップもあった。普段は吉祥寺を根城にしており、化粧品も洋服もそこで完結してしまうため、新宿伊勢丹や銀座三越に出かけることがめったにない私。先週の伊勢丹に続き、チャイナ買い物パワーに圧倒されたのでした。別に悪くはないけど、圧倒されるよね、うん。

 

References

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1 人にプレゼントしたが自分が持っていない・・・

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