他人は別の生き物

例によって池田晶子女史の本を読んでいて、膝を打った。ちょっと長いけれども引用します。

で、そのようにして、時系列を創世の方向へ遡り、視野をうんと宇宙大にとってみると、それぞれの<魂>が、それぞれの仕方で、それぞれの人生を生きているという、当たり前と言えば、あまりに当たり前な光景が見えてくる。しかし、この当たり前が当たり前として明確に自覚されていないから、自分の理屈で他人を解釈できると思うその勘違いが生じるわけだ。しかし、それぞれの<魂>は、それぞれ別々の世界を感じているのである。それぞれ別々の仕方で、この宇宙を理解しているのである。それはそういうものなのだから、そうでしかあり得ないのだから、それはそれでいいのではないか。いかなる根拠によって人は他人を断じることができると思っているのか、私は常々疑問を覚える。

そうなのだ。こんなに当たり前のことを何故他の人は理解できないのか、私にも疑問だった。こういう考えをするとき、必ず頭をよぎるのが大学時代の恋バナである。何年生の頃だったかはすっかり忘れてしまったけれども、同じ友人グループの一人がとある男性を振り向かせたいと「話し合いをしに行った」らしい。それについての報告会というか、意見会というか、平たく言うと女子会に私も動員されたのだった。しかし、当時も今も、一体何を話し合うのだろうと、疑問でしょうがない。相手の心が自分にないのであれば、できることは「自分の好意を知ってもらう」ことぐらいで、さて何を説得するつもりだったのだろう?説得するだけで簡単に自分に振り向いてくれると考えることは、相手の男性にも失礼だし、「説得すれば振り向くような軽い男」を好きになるという、自分の品性の問題にも関わると、何故考えられないのだろう?と当時の私は思っていたのだが、言うと面倒なことになるのは明らかなのでおとなしくしていた。これらの疑問は形を変えて、相変わらず私の中で燻っている。

私は私の物の見方と判断基準で世界を見ている。その見方や基準を変えるか変えないか、決めるのは私であって、私以外の人や物はあくまで「影響を及ぼす」だけだ。私の世界の中心には私がいる。その場所から動けないし、動くつもりもない。他人は別の生き物である。他の人の全てを理解できると思ったり、自分の思い通りに動かせると思わないほうがいい。

 

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