哲学にハマったカエル、神を語る

夏の暑い日、クラウス君は干からびそうになる体に、たまに池の水をすくってかけながら、ヨハン君が根城にしている草の陰にやってきました。

「やぁ、クラウス君!こうも暑くっちゃ、僕、一歩でもひなたに出た途端に干物になると思うよ!」と挨拶するヨハン君に「君の想像は間違ってないと思うよ。僕でさえカエルの干物になるところだったんだもの」と返事をして、クラウス君はさっそく本題を切り出しました。「この世界に神様っているの?」

ヨハン君は2度瞬きをしました。それは決してクラウス君の背中越しに突き刺さってくる太陽光線が眩しいからではありません。あまりに突然で、あまりにザックリとした、しかしあまりに本質的な質問だったため、一瞬理解が追いつかなかったのです。「え?神って、あの所謂あの神かい?一神教?多神教?」となんとか数秒後に反応したところ、クラウス君はまた事もなげに「今回は一神教の方」と答えました。「というかさ、ヨハン君。亀のじい様のことを人間は神様っていうでしょ?あれは一神教の神様と同じなんだろうか?」

今回の質問は最初のよりは反応のしようがあります。ヨハン君は答えました。「亀のじい様は偶像の神様なんだ。人間が勝手に亀のじい様にありがたいと価値をおいているだけなんだよ。亀のじい様の場合はその長生きさにだろうな。人間は皆、長生きしたいと願うから。だから亀のじい様の長生きさがありがたいのさ。お金が欲しいと願うから、お金がありがたいと思うのと一緒さ。偶像崇拝なんだよ。亀のじい様自体に神性があるわけじゃない。亀のじい様の長生きさにはあるかもしれないけれどね。」「実際思い出してみるがいいさ。じい様、きっと眠いから、最初に哲学の話をし始めた君を僕のところへ寄越したんだぜ!」ヨハン君は調子に乗って言いたい放題言います。「そう、最初の質問だけれどもね。だいたい、いわゆる神様だって僕らが考えたものだ。僕らの想像力は僕らの想像出来る以上のことは想像できないんだ。だから、僕らが考えたギリギリの存在が神様なんだよ。壁の向こうの存在の様子だなんて誰にもわからないからね。自分を超越した存在を言葉で語れるわけはないだろう。でも、個人的にはなにかしら超越したものの存在はあると思うよ。前に話した合わせ鏡の話さ。」

調子の出てきたヨハン君にクラウス君はさらに質問します。「でも合わせ鏡の先にいるものに対しては、神様っていう人っぽいものは感じなかったなぁ。でもさ、よくいう神様はとても人っぽいよ?信じない人を懲らしめて、良い人を生かしたりして・・・」

「だからそれが僕らの想像力の限界だと思うんだよなぁ。あぁ、そういう意味でイエス・キリストは、砂時計の真ん中、あちらと僕らの想像力の限界であるこちらをつなぐ存在なんだよ。彼やイスラム教やユダヤ教でいう預言者がいないと僕らは神とつながる事ができない。もちろん、キリスト教において、イエス・キリストは三位一体論で神と同じものと考えられているから、人間である預言者とは少し立場は違うかもしれないけど。」

ヨハン君はにそう言われても、なんとなく釈然としないクラウス君は、一生懸命、神様の姿を想像しようとしました。が、考えれば考えるほど、ヨハン君が言う通り、自分を超越した存在である神を想像するのは不可能ではないか?と思えてきます。「僕たちは神様を姿で想像しようとするからダメなのかもね。姿や形じゃないとしたらなんだろう?言葉かな?」クラウス君のこのつぶやきに、ヨハン君の表情がパッと変わりました。

 

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