善い人間を目指せ

Twitterでは数日前に話題にしたが、やれFacebookだのTwitterだのInstagramだのといったSNSで(イケてる)ファンを作って、その(イケてる)ファンに拡散してもらおう!という、なんというかオシャレ系お仕事の典型みたいなことをやっている学生が会社にいる。まぁ、時代も時代ですし、かくいう私もインスタは料理と温泉と風景ばかりといえどやってますし(Twitterは目も当てられない惨状だが)、これからの時代のビジネスの方向としては確かに間違っていないと思う。ただその子、イケイケ度というか「私オシャレな仕事しているオシャレな女子なんです!」オーラがものすごい。2ヶ月ほど前だったか全社ミーティングの場での発表は「アンバサダー」だとかなんとか、横文字のオンパレードで、そもそも「いっそがしい曜日なのに、ミーティングたぁ、かったるいな」という体で聴いていた私の感想は「すごい、意識高い系の女子って初めて見たわー」という完全に時代についていけないおばさんそのものだった。

さて、このイケイケ女子であるが、たった一つの行動で私の中の評価はがた落ちである。私は「彼女が困っている人を助けなかった」、その場面に居合わせた。困っている人がやっていたのは雑務である。ドアに引っかかって、台車に積んでいた荷物を床にぶちまけてしまっていた。それに気がついてしかるべき距離にいたのに、何もしない、その「仕事に貴賎がある」とでも言いたげな態度。私にはこれが許せない。聞こえなかったのでは?と擁護したくなる方もいるでしょうが、聞こえないはずないんである。社内でも大声で有名な(しかも図体もデカイ)私が「わー!!崩れてる!わー!!拾う、ひろう!!」と大騒ぎしていたからね。まぁ、私は彼女ではないんだし、実際のところ「自分の仕事はオシャレで、雑務はダサい」と思っているかどうかは知る由もないが、人の行動というのはこのように評価を分けるのだ。もちろん、私自身が彼女を責めれるほどに善い人間かといえば、それは太宰治ではないが「恥の多い生涯をおくってきました」。

そう、今までの「善い人間にあるまじき行動」を恥じ、これから少しでも善い人間になれるか、が重要なのではないだろうか?善い人間であろうとしない人間は絶対に善い人間ではないのだ。なぜならば、善い人間を知らないからだ。善い人間が何かを知っていれば、人は必ずそれを目指す。最近つとにそのように感じる。それは、また別の人の話になるが、そのように善い人間を明らかに目指している人に出会えたからかもしれない [1] … Continue reading。一般的に人はその辺無自覚なんだろう。だからその人が善い人間であろうとすることが余計いい意味で引っかかった。それはとても好ましいもので、あぁ、この人が目指すように私も善い人間を目指そうと思える。そういう出会いってとても幸せなものですね。

というわけで、無理くり池田晶子女史の言葉で締めます。

人にとって本当に大事なことは、じつはひとつしかないのだから、自分が大事だと思う人は、必ず大事だと思ってくれているものである。

心からそう望む。

References

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1 ただし、本人としては無自覚に近い可能性もある。善い人間を目指す、のではなく、「正しい自分でありたい」「みっともない自分はいやだ」とかそういう心象か。

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