魂の二分割論

とある人に宿題で出されて、数日頑張って書いて提出したのに(流石に長すぎるのでLINEのノート機能使って)、思いっきり駄目出しされて、今年初凹みだったので、こっちでも公開しちゃいます。原文ママなので、ググられると一発でブログバレしちゃいますが、もういいもんね!!!


「人の体を半分にし、失った半分をサイボーグとして、要は一人の人間から二人の半分サイボーグを生み出した場合、人の魂はどうなるのか?」結論から言えば、「そんなの、やってみなければわからない」である。そもそも魂とか、感情とか、意識とか、記憶とか、そういった言葉の定義さえ曖昧である。意識と感情とを分かつものはなんなのか?ただ、今これらの言葉の定義を考え始めると先に進めない。よって、今回はなんとなくこれらの言葉を使う事にする。

さて、では実際、人ひとりからサイボーグを2人生み出したら、どうなるのだろう?先ずは「感覚」。最近は人の筋肉の神経系信号を読み取り、かなり正確に動く義手も作られている。近い将来、義手からの信号を筋肉が読み取り、感覚としてその人が認識する事もできるようになるだろう。であれば、サイボーグには「感覚」はある、と言える。では、もう一つ進んで「感情」は?周りの環境にただ反応するのではなく、それに対して「好きだ」「嫌だ」の感情を持つ事は可能なのだろうか?

ここで問題になるのは感情を持つ主体だ。一般的に、というか当たり前に、そういった感情を持つのは「わたし」である。否定も肯定もできない存在、ただそこにある「わたし」。「あなた」には絶対になれない「わたし」。この「わたし」こそが、感情を持ち、「わたし」を私として意識し、あなたを認識しているのである。では、この「わたし」を分割する事は出来るのだろうかと考えれば、答えは「多分できない」。

例えば、臓器移植に伴う記憶転移。記憶が「わたし」そのものではなかろうが、わたしの中にわたしの記憶は確実に含まれている。であれば、臓器移植によってドナーの記憶や嗜好が現れた(と思われる)記憶転移は、「わたし」が臓器にくっついて、レシピエントのなかに取り込まれたと言えるのかもしれない。が、例えば、怪我で腕を一本失った場合、その失った腕にもわたしが宿っているのか?これはわたし本体にとっては大いに謎である。もしかすると「こんな下らん怪我をしよって」と不満を垂れているわたしも腕のなかにいるのかもしれないが、さて、そういう不満をいうわたしはわたしなのか?わたしはわたし本体をわたしと認識しているので、腕のなかのわたしは「腕のなかのわたし」であり、わたしではない・・・案外、命として(命とは?)生き延びた方(臓器移植では唯一他人の中で生き延びることができる臓器、手の切断に於いては、生き延びる体)にのみわたしが残っているだけかもしれないが。

これ以上「わたし」問題について書くと、わたしがゲシュタルト崩壊した挙句、「たわし」とか書きそうになるので、この話はここで切り上げるが、結局同じ事は二人のサイボーグにも当てはまる。二つのものに「わたし」は同時には現れない。必ずどちらかが「わたしではないわたし」になるだろう。この状態を回避する唯一の方法は「世界そのものがわたし」という見方なのだが、これは別の話なのでまた今度。

とにかく、感覚は間違いなく半分機械の体でも存在するだろう。元の体の分割の方法にもよるだろうが、感情もありそうだ。脳を含む方がより強固かもしれないが、臓器移植の記憶転移が実際にあるのであれば、肝臓でも心臓でも、残りの部分が機械ならば、臓器に宿った意識が機械の部分を圧倒し、何かしらの意識や感情は持つことは不思議ではない。ただ、それが分割前と同じ「わたし」かといえば多分違う。例えるならば、「りんごを半分に切ったら、半分のりんごはりんごには間違いないが、りんご丸一個そのものではない、違うものだ」といった感じ。問題は最初のわたしとサイボーグになった後のわたしの連続性の有無である。論理的には違う存在なのだが、それでも趣味趣向や感情は元のわたしを継承するのだろう。新しい体には無感情な(なのかは誰にもわからないが)、機械しかないのだから。

グダグダ書いたが、やはり、実際にやってみないことにはわからないのである。体半分のサイボーグ化は生きている間に難しそうだが、臓器提供者にはなる可能性がある。しかし、他人の体の中の肝臓に宿るわたしがいくら自己主張しようにも、ものを書く手も、話す口も持っておらず、やはり真相は闇の中のままなのだ。

Leave a Reply