中世ヨーロッパのフーガ 「薔薇の名前」ウンベルト・エーコ

ヨハネの黙示録
第4章2〜7節
「見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。」
ヨハネの黙示録
第18章1〜20節
「その後、わたしは、大きな権威を持っている別の天使が、天から降って来るのを見た。」

最初は図書館で借りて読んだ。「なぜ文庫化しないのだろうか?」とぼやきながら、単行本を買って二回目に読んだ。間隔が数年空いていたせいだろうか?それは見事に細かい内容を忘れていたので、初読のように読めた。唯一の違いは、私がキリスト教神学について多少の知識を身につけたことくらいかもしれない。でも、情けないことに、その知識は全然役に立たなかったのである。

ご存知の通り、「薔薇の名前」は単なる「中世ヨーロッパの修道院における殺人事件」の物語ではない。名前と記号の話であり、修道院と大学の知の話でもあり、平信徒と聖職者のあり方の話でもあり、愛の話でもあり、正統と異端の話でもある。小説という形態を取っているが、ヨハネの黙示録について詳しくなるわ、なんだか教科書盛り合わせのような本なのだ。何より「薔薇の名前」は「本の本」である。

「よくあることだよ。書物はしばしば別の書物のことを物語る。一巻の無害な書物がしばしば一個の種子に似て、危険な書物の花を咲かせてみたり、あるいは逆に、苦い根に甘い実を熟れさせたりする。アルベルトゥスを読んでいるときに、後になってトマスの言うことが、どうして想像できないであろうか?あるいはトマスを読んでいるときに、アヴェロエスの言ったことを、どうして想像できないであろうか?」(中略)そのときまで書物はみな、人間のことであれ神のことであれ、書物の外にある事柄について語るものとばかり思っていた。それがいまや、書物は書物について語る場合の珍しくないことが、それどころか書物同士で語り合っているみたいなことが、私にもわかった。

(下巻 P52)

「書物というのは、信じるためにではなく、検討されるべき対象として、つねに書かれるのだ。一巻の書物を前にして、それが何を言っているのかではなく、何を言わんとしているかを、私たちは問題にしなければならない。」

(下巻 P100)

また、真実のために死を辞さない人間の話でもある。

「(前略)恐れたほうがよいぞ、アドソよ、預言者たちや真実のために死のうとする者たちを。なぜなら彼らこそは、往々にして、多くの人びとを自分たちの死の道連れにし、ときには自分たちよりも先に死なせ、場合によっては自分たちの身代わりにして、破滅へ至らしめるからだ。」

(下巻 P370)

9.11を経て、テロと暴力の世界に慣れつつある我々からすると、エーコが40年近くも前に、このことを指摘していたことは驚きだ。逆に言えば、40年も前に指摘されていたにも関わらず、このザマとは救いようがない!

さて、何点か読みながら頭をよぎったことをメモしておく。まず、物語の構造、舞台設定、犯人の人物像など、読んでいて京極夏彦の「鉄鼠の檻」を思い出す。むしろ「鉄鼠の檻」が「薔薇の名前」を戦後日本を舞台に組み立て直したと言ったほうが正しいのかもしれない。読み比べてみると面白いかも。

わたくし、京極堂シリーズではこれが一番好きなのです。

次に、「薔薇の名前」というタイトルの出所である。直接的には、最後の一文<過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ。>に記されているだけで、これはこれで「薔薇の名前」がどこから出てきたのか、さっぱりである。訳者解説によると、ドイツ語版にはご丁寧に「娘の名前がローザかも」と書いてあるらしいが、例えそうであっても、この物語のポリフォニーっぷりを鑑みるに、それだけではないのだろう。「ポリフォニーっぷり」自体が薔薇の花びらのようでもあるし、多分他にも意味がある。今回2度目の読書で個人的に引っかかったのが、第6日、ウィリアムとアドソの師弟が地下聖堂の宝物庫で出会った品物の描写。乾いた薔薇の花弁の上に、荊棘の冠の一部などが保存されている、というあのシーンである。ウィリアムはそれら聖遺物が本物ではない(かもしれない)と認識しているが、その本物ではない(かもしれない)聖遺物を取り囲む枯れた薔薇・・・なんとなく、物語の大枠に被っているように思えるのだ。まぁ、記号論の大家エーコのことである。きっとまだまだ薔薇に意味があるに違いない。

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