自分の頭で考える

私が今まで一番大きな影響を受けた本は、田中芳樹の「銀河英雄伝説」だ。中学1年だか2年だかの頃にどハマりして以来、ずっと愛読している。主人公の一人、ヤン・ウェンリーは民主主義国家に生まれるが、彼の(ちょっと残念な)父親との会話でこんなのがある。

ルドルフがそれほどの悪党だったなら、なぜ、人々は彼を支持し権力を与えたのか?(中略)
「民衆が楽をしたがったからさ」
「楽をしたがる?」
「そうとも。自分たちの努力で問題を解決せず、どこからか超人なり聖人なりがあらわれて、彼らの苦労を全部ひとりしょいこんでくれるのを待っていたんだ。そこをルドルフにつけこまれた。いいか、おぼえておくんだ。独裁者は出現させる側により多くの責任がある。積極的に支持しなくても、黙って見ていれば同罪だ……(後略)」
(「銀河英雄伝説1 黎明篇」田中芳樹 P55)

ルドルフというのは、ヤンの国と敵対する帝国の始祖であり、ヒトラーと同じように、最初のうちは比較的穏健に民主主義体制の中で地位を固めた独裁者であるから、この部分は純粋に独裁制についての話と読める。が、本当にそうだろうか?我々も民主主義国家の中で、選挙の時だけは公報だとか読んで、それなりに考えて投票しているだろうが、その後、当選した議員に対して全てを丸投げし、ただ文句を言っていないだろうか?我々は自分の頭で考える責任を放棄していないだろうか?

これは政治に限らない。例えば規則やルール。細かく決められていれば、それに則っている限り、誰も文句を言わないわけだし、むしろ褒められることもあるし、全く問題はない。だが、規則に従ってさえいればいいのか?その規則がなんのためにあるのかを考えなしに「規則だから」と従うのは、ルドルフに従うが如く、思考停止ではないか。勿論「じゃあ、考えた上ならば、規則なんてぜーんぶ破ってもいいのね?」と言われると、それはちょっと違う、としか回答しようがないのだが…

いずれにしても、我々はもう少し考えることをしても良いのではないかと思う。ポリティカル・コレクトネスだとか、文化の盗用だとか、本来明確なラインを引きにくいものにも線を引いて社会のルールにしてしまうから、いちいち大騒ぎになる。この世のぼんやりした部分はぼんやりしたまま、その時々で考えて判断を下せば良い。なんでもルールに縛られては、新しいことは何ひとつ生まれないだろうし、何より堅苦しくて生き辛い。一人ひとりが自分で考えた結論に基づいて行動すれば、きっと社会も面白くなる。せっかくネットという簡単に発信できるツールを手に入れたんだもの。そこでどんどん発信していけば良い。他の人の考えに触れて、さらに自分の考えを深めることもできるだろう。

…とかた苦しいことを書いたが、これ、メイクだとか流行だとかについても一緒だと思う。今の流行りが万人に似合うわけでもなし、自分にとってのベストは何か?と考え試行錯誤することが美人への大前提だろう。似合う似合わないに関わらず、版画みたいに同じ顔が溢れる社会は何かが気持ち悪い。

そう考えると、考えるというのは自分を一度見直すことから始まるのかもしれないな。結局それこそが、個性を大事にした多様性を持った社会に繋がるのだろう。私はそういう社会で生きたい。

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