暴力は手段、反暴力も手段

■免責■

図書館で借りた本で、しかも結構前に読み終わって返却済みなので、記憶のはっきりしていない部分もあります。

■本題■

正直なところ、私の知識不足故なのか、それとも私と著者の思考回路が微妙にずれているためなのか、理由はよくわからないのですが、兎に角読みにくい本でした。意味が分からないというより、論旨をつかめなかったからやっぱり後者が理由かな?ホントに読みにくかった。とは言え、大体の骨子はつかんだので(多分)、それについて一言二言。

まず、キング牧師やガンジーの話から始まるのですが、ここで重要なのは暴力は手段であるということ。クラウゼヴィッツも戦争と政治の関係について述べてますが、そんな大きな話でなくとも、例えば家庭内暴力でも、暴力ってのは必ず目的のための手段になっている。国家間戦争の場合は相手国に自分の要求を押し通すため、家庭内暴力の場合も自分の要求を押し通すためだったり、家庭内での地位を確保するため。じゃあ、暴力そのものに快感を見いだす人は?それもやっぱり「快感を得るため」という目的があっての暴力である、と。それをふまえた上で考えると、キング牧師やガンジーが唱えた反暴力や非暴力も、結局「自分たちの言い分(この場合はマイノリティーの要求)を通すための手段」にすぎず、別に彼らが暴力そのものを無くしたいと考えている訳ではない。

つまり、「非暴力」「反暴力」というのは非常に聞こえがよいけれど、結局、レベル的には暴力と同等なのではないか? [1]表現が難しいですが、「同じ穴の狢」とか、そんな感じ。ガンジーも暴力に対抗して暴力を使ってよかったけれど、非暴力のほうが効果的だからそうしたのでは?

こんなことを書くと暴力容認主義者のようですが、ある意味、実際そうなのでしょう。もちろん現在の社会において、「暴力は無いほうがよい」というnormがあるので、私も社会の一員としてその共通認識は持っているけれど、でも、手段としての暴力はなくならないと思う。結局人間は [2]もしかすると動物全体も。 力(power)を求める存在だと、常々思っています。健康でありたいのも「生命力」を求める故。風車、水車から火力発電所、原子力発電所に至るエネルギーについても、より強大な兵器も、結局「より大きな力」を求めて進化したのではないか?と。 [3] … Continue readingならば、より一層の力を求めるため暴力を手段として選ぶことは今後も無くならないと思います。お猿さんだってお山の大将になるために暴力的行為を働いているわけで、「力を得るための暴力」は正直動物に最初からインプットされた手段ではないかと。 [4]流石に植物に暴力は無い気がする。これも「暴力」の定義次第ですが。魚についてはどうだろう?動物は間違いなく暴力を使う存在ですね。もちろん、その「力」を求めるために、反暴力という手段を使う場合もあるだろうし、もっと別の手段を使う可能性もあると思うけど、「力」を求めること自体はなくならないのでは?

では、「力の定義とは?」と訊かれると、結構困るのでここでは割愛させていただきますが、兎に角「反暴力」も結局「あくまで目的を達する(=力を得る)ための手段にすぎない」という突き放した見方が必要なのではないか?と思います。

■余談■

…と、本の最初の4分の1くらいの内容しか触れていないのですが、それは、後半部分(確かテロリズムについて書いてあった気がする)について、私があんまり覚えていないからです。ホントにね、読みにくかったんだよ。

 

References

References
1 表現が難しいですが、「同じ穴の狢」とか、そんな感じ。
2 もしかすると動物全体も。
3 ついでに言うと、だから原子力がなくなるには、より大きな力の供給源(兵器としても、エネルギーとしても)が必要だと思います。それが出てこない限り、手放さないんじゃない?
4 流石に植物に暴力は無い気がする。これも「暴力」の定義次第ですが。魚についてはどうだろう?動物は間違いなく暴力を使う存在ですね。

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