memento mori PART2

memento mori

この辺からの続きもの。死について。

さて、最初の記事を書いたときも、今回も、身近な人が亡くなって、それについて考えた。葬式のフィナーレ、皆が泣きながらお棺を取り囲んでいる中、孫娘の一人がじっと顔を覗き込み、死について考え込むというのは、(こういう言い方は後で書く内容と矛盾するかもしれないが、あえて言うならば)亡くなった祖父母からすれば苦笑ものであろう。が、そんな孫娘を育てた親を育てたのは自分である。その点については、文字通り御愁傷様。で、前回は葬式は生者のものだと考えたが、今回は「死」そのものについて考えた。

葬式が生者のものであるように、私は「死」も死にゆく本人のものではなく、残った者のものだと考えていた。つまり、死ぬ人間は死ぬその瞬間まで生きているわけで、死んだらその瞬間に死ぬわけで、ならば「死んだ」瞬間を感じようがない。まぁ、魂というのが実はしっかり自我を残してその辺を彷徨っており、「あら、私、死んじゃったのね。私は、魂でしかないのね。」と自己認識してるのかもしれない。が、それも生きている私には絶対に解り得ぬ世界である。しかも、そんな風に自己認識できるならば、そんな風に考える「私」は「死んでいない」。

逆に、死んだ人間以外にとっては、死んだその人は自分の世界から退場してしまう。「あの人は死んだ」と認識し、自分の世界から消えてしまったことを嘆き悲しむ。(一部小躍りしたり、無関心だったりする場合もあるかもしれないが・・・)が、本当に死んだ人は、自分の世界から消えてしまったのだろうか?

例えば、私は小さい頃はともかく、大人になってから祖父母に会ったのは数年に一度である。で、彼らが生きている当時に彼らのことを思うのと、亡くなってから思うのと、その差異はどうも考えていたより大きくないのである。もちろん、もう二度と会うことも話すこともできない。それは事実である。が、生きていようが亡くなっていようが、会えない、話せない状況で彼らを思うとき、その思い方(「元気にしているだろうか?」「あの頃は元気だったのに。」)に違いはあるものの、私の頭の中における彼らの姿、存在は変わらないのだ。であれば、私の中における彼らは「存在する(ある)」と言えるのでは・・・?そして、もし、死んでもなお「ある」のであれば、すべては最初から私の中に「ある」のではないか?

もちろん、私が私としての自我を獲得する前にすべてが私の中にあったのかはわからない。自我を獲得したと思っている今も、すべてが私の中にあるとは信じがたい。が、私のお気に入りの言い方をすれば、合わせ鏡の先にあるものが、私のいる場所の鏡にも薄らボンヤリうつっている限り、私は私の中に全てあると言えるのだろう。逆に言えば、私自身も他の人の中にある。問答無用で文字通り世界は一つ、なのかもしれない。

この辺については、もう少し考えて、追々またカエルのクラウスくんに語らせる予定。とにかく、「死」、これは死にゆく人にも、死んでいない人にも、認識不可能なもの、つまり、「ない」ものと言えそうです。

 

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