なぜ私は池田晶子が好きなのか?

    

帰りがけの本屋で見事な女三点盛りを買ってしまった。「タラレバ娘」の結末にはまぁ、不満が残るものの、結局漫画だしね・・・という感じ。問題は私の33歳はあと2ヶ月で終わるということである。きゃー!「深爪式」はこれからお風呂の中で読みます。

さて、この3冊の中ではちょい硬派な池田晶子の本。これは没後10年の記念出版ということですが、「幸福に死ぬための哲学」と同じく、今までの本の中からの抜き出しです。

色もデザインも内容も、ほら、対になっている。「幸福に〜」の方も以前図書館で借りて読んだのだが、なんせ元ネタの本をほぼ読んでいるので、買ってはいない。なのになぜ「絶望を〜」を買ったのかといえば、単に本屋で見かけたからである。本屋の魔力、かくの如し。

と、おバカなことはさておき、そして、これからもおバカなことが続くのだが、今更ながら「すでにほぼ読んだことがある文章から10行くらい抜き出してまとめただけの本を買うほど、なぜ、私はこんなにも池田晶子が好きなのか?」と考えた。考えながら、駅からてくてく歩いて帰ってきた。以下、考えた結果です。

  1. 美人:「は?ふざけてんの?」と言われそうだが、これでも大真面目です。人間、いつだって美しいものが好きなのだ。一般的に了解されている美しさの範囲から外れた人(端的に言うとブス)が好きな人もいるだろうが、その人はその人なりに好意の相手に美しさを見出したから好きなのだろう。それは見た目じゃない内面かもしれないし、まぁ、見た目が美しく見えたということもあるかもしれない。大体「美しさ」なんて概念であって、モノではない。私にとって池田晶子は美人だ。だから好きなのだ。
  2. コリー好き:これは単なる親近感。私もコリーを飼っていたことがある。実は、個人的にはジャーマンシェパードのほうがより好みではあるんですが、大型犬には心通じるものを感じるという、その感性。よくわかる。というわけで、親近感。
  3. 考えの一致:宇宙物理に国際関係論とあっちこっちへ飛んではいるが、私はもともと哲学少女である。とはいえ、「ソクラテスがー」とか「カントがー」とか、そういう勉強の仕方はすこぶる苦手で、たまーに哲学書(いわゆる解説本も含める)を読んでは、それを咀嚼しようとする、しかし咀嚼に時間がかかるから嫌になる・・・というのを繰り返していた。途中キリスト教神学に走ったのも、ある意味そういう意味では勉強しやすかったからなのだ。でも、(別に極めたわけではないので結論というのはおこがましいのだが)、結論として、2013年に書いた以下の記事のように、「どーもキリスト教の世界観は私の世界と違うぞ」と気が付いていた。そんな中、またちょっと他の分野に浮気して、戻ってきて池田晶子である。まー、ピッタリはまりましたよ。「あ、なんだぁ。あのことはこう言えばよかったのね!」みたいな感じ。「よくぞ言ってくれました!あーすっきり!!」みたいな感じ。わかるかな?

合わせ鏡とカール・バルトとブラックホールの特異点と

「結局なんなのよ。全然よくわからない」と感じる方がほとんどだと思う。そういう人は読んでみると良いのだ。たかだか120ページ強しかないのだから。それで興味を持ったら、全文読めば良い。ハマる人にはハマるし、ハマらない人には、ハマらない。ハマった人は是非、語り合いましょう。

目下の問題はこの本、あの人に送ってみたいけれども、ハマってくれなかったら、私は非常に悲しく感じてしまうだろう、ということ。それが怖くて2冊は買えなかった。お値段1000円(税抜)です。ランチ1回分で宇宙の深淵を覗くとしたら、安いものじゃありません?(そして人間関係の終焉には高くつくのだ。)

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