「社会で役に立つか否か」と言っている時点でどうなの?という話

「漢文は社会で役に立たない」と切り捨てる“意識高い系”の勝ち組へ あえて「ビジネスシーンで役立つ漢文」を考えてみた

漢文が社会で役に立つか否か。残念ながらというか幸いなことにというか、私の仕事は日本語のみでほぼ成り立っているため、今のところ私の「ビジネスシーンでは役に立ってはいない」。が、これは単に「漢文が役に立つような土俵に私が立てていないから」とも言える。上のリンクの最後の例にもあったが、中国人相手のビジネスならば、李白や杜甫の詩を習ったということを先方に伝えるだけで、勝手に親近感を持ってもらえるかもしれない。私だって、同じくらいの能力や重要度の外国人が目の前に二人て、片方が「清少納言のエッセーを英語で読んだ」と言ったならば、その人の話に食いつくだろう。相手の文化に対する知識を持っていることは、人間関係においてかなり有利になることは間違いない。単に漢文の知識を活かせそうな仕事についていないのが、問題なのだ。なので、自分の今の立ち位置だけで「役に立つか否か」を判断するというのは、翻って「役に立っているという実感も持てない己の立場の低さの証」と言える。

それに、中国語の勉強と違って、学校で習う漢文は完全に教養である。漢文を読めても中国語が喋れたりするわけではない。が、こういう教養こそが必要だと思うんだよね。漢詩の字面を眺めてみたり、孔子の教えを学んでみたり・・・面白いと思うんだけど。持っている(でも普段はなかなか見えない)教養の深さはより良い人生に必要だし、そういう人と一緒にいたいと思うのだが・・・そう思わない人もいるんだろう。

大体、「役に立つ」「役に立たない」という線で考えるならば、人間個人の存在など最も社会にとって役に立たない。外資系コンサル?エリートビジネスマン?でも、そんな人間も「急にいなくなったら」会社はしばらく困るだろうが、最初からいなければ、いないものとして社会はきっと回るだろう。急にいなくなったとしても、どこかでまた辻褄があって、なんとかなるものなのだ。

というわけで、学問に対して「こんなの意味あるのか?」というのは、単に己の小ささと、自己評価の高さを公言するようなものなんだから、やめておいたほうがいい。せっかく未知のものに出会ったのだから、謙虚に勉強したほうが、最終的によっぽど自分の人生に役立つだろう。

 

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