本とは世界である

何気なく図書館で借りたら、思いの外面白かった本。ナチスによる美術品の略奪は有名なものの、本についてはあまり知られておらず、その理由は本の中の早い段階で

「不幸なことにメディアの関心は本よりももっぱら美術品に向けられています。何百万単位の金額が付随する傑作の変換は大きな新聞記事になるが、一冊の本の場合に同様なことは望めません。どれほど心揺さぶられるような出来ごとであっても」

ハルトマンは本をめぐるもうひとつの問題を指摘する。

「美術品はたいがい出所がわかります。古い作品は展覧会のカタログ、競売の登録に記載されている、あるいは批評家が取り上げられている。だから辿ることができます。本の場合にそのようなことはめったにありません。スタンプがなければわからない。例外はあるにしても、美術品と違って本は一冊ずつが独自の存在ではない。だから膨大な作業が必要になるのです」

P48

と明かされている。金額的価値が低いこと、同じ本が何冊も流通しているため、「その特定の本自体の持ち主」が蔵書印などないとわからないこと、そしておそらく、「1つあたりの金額的価値が小さくて、たくさんある=たくさん集められた」が故に、その後美術品のように丁寧に扱われず、痛んでしまったり、燃やされた本が多いことも、人々の本への関心の薄さの現れかもしれない。

この本を読んで考えずにいられないのは、「今も時代に同じことが起こったら?」ということ。大量印刷の量も当時とは桁違いだし、そもそもKindleなど、電子化も進んでいる。ナチスが目論んだことは可能なのだろうか?

そもそもなぜ、ナチスは本の略奪を目論んだのか?ユダヤ人を絶滅(当初の予定ではヨーロッパから追い出す)ことが目的ならば、彼らの蔵書やユダヤに関する本も燃やし尽くして、存在自体をなかったことにすればよいだろうに、そうではなく本を収集したのはなぜか?これがおそらく、同時期の日本と違うところで、ナチスは「イデオロギー」に大真面目に取り組んでいたんである。宣伝省なんてものが存在している時点で結構お察しなんだが、本の略奪もその後「敵としての研究」に必要だから残されたわけで、

人間は進化し、変化し、死ぬ。だが思想は不滅である。最終的に千年王国の存続を保証するものはイデオロギーの強固な土台のみだった。ナチは時を超えて−とりわけ総統の死を超えて−生き残るだけの、イデオロギーの面で強固な構築物を作りだねばならなかった。

P118

もちろん、全ての本がこの目的ではなかった。ローゼンベルクは党内の古参であり、イデオロギーの専門として、高等学院、研究センターの創立にも関わり、そこに収めるための本を略奪したわけだが、親衛隊が収集した本はもうちょいオカルトな本も混じってて、中世に魔女として火炙りにされた女性たちは、このナチスの反カトリックな思想に助けられて、名誉回復したりしている。 [1]魔女裁判は北方ヨーロッパの土着信仰に対するカトリックの暴力という見方をすれば、ナチスの行動もわかりやすい。何れにしても、ナチスはヨーロッパ中から本をかっさらっていったんである。

さて、本書は「ナチスの略奪」についてなのだが、元の持ち主に本が帰らないもう一つの理由が存在する。正直、他のいろいろなこととでも起こっているので、「またお前らか」という感じだが、ソ連、そしてロシアのせいである。ナチスが収集した本を再略奪したのがソ連であり、それは戦利品なのだからということで、ロシアもなかなか返そうとしない。本はいまも散らばったままなのだ。

ここで、最初の疑問に戻る。「今の時代に同じことが可能なのか?」多分、可能だろう。本の規模も違うが、破壊の規模も当時と違う。もっと効率よく収集と破壊ができるだろう。Kindleにしても同じ。出元を差し押さえたり、端末を壊したり、データを破壊したり、多分、紙の本に比べると略奪・破壊に関して多少いたちごっこになるだろうし、生き残る本もあるだろうが、ある程度であれば可能だと思う。

本は人の思想の現れである。美術品以上に人の考えを直接的に伝播可能な、安価で大量生産可能な代物だ。だからこそ、人は本を慈しむし、人の思想を破壊したいものは本を狙う。テレージェンシュタットからアウシュヴィッツに送られたユダヤ人は誰しも(自分の運命を知りながら)2、3冊の本を持っていったという。私も同じような状況下に置かれたならば、(そして可能ならば)自分の蔵書から何か1冊でも持っていきたいと願うだろうけれども、さて、どの本を選ぶのだろうか。

References

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1 魔女裁判は北方ヨーロッパの土着信仰に対するカトリックの暴力という見方をすれば、ナチスの行動もわかりやすい。

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