「蠅の王」とキリスト教

「十五少年漂流記」の暗い版、というコメントの多い「蠅の王」ですが、別の視点から読んでみると、「バッドエンド冒険小説」以上なんではないか?と思えたのでメモ。

まず、翻訳者自らの解説でもちょろっと触れていましたが、この物語は「キリスト教的原罪」がテーマになっていると思われます。「異常な環境で無垢なる少年達の中で表面化する残虐性(つまり最初=子供は無垢だった)」とも読めるのですが、私個人としては「生まれたときから原罪をもっている人間故の残虐性」が一番しっくり来る。「蠅の王」は少年の一人サイモンにいわく、

「おまえはそのことは知っていたんじゃないのか?わたしはおまえたちの一部なんだよ。おまえたちのずっと奥のほうにいるんだよ!どうして何もかもだめなのか、どうして今のようになってしまったのか、それはみんなわたしのせいなんだよ。」

つまり、少年達の中には例外なく「蠅の王」が潜んでいるということ。それは、狩猟隊を率いて規則を破り、欲望のまま行動するジャックは勿論、比較的理性的なラーフも同じで、その人間が元々持っている悪いモノの現れ方の程度の問題。そう言う意味では、「理性」側に立つラーフやピギーが比較的まともである事を考えれば、理性というのは人間の原罪が表面化することをある程度までだったら押さえる事が出来るといえるでしょう。ただし、ラーフもピギーもまともな方とはいえ、決して骨の髄まで良きモノではなく、例えばラーフならば最初のほうではピギーにとって絶対バラしてほしくないあだ名をみんなに暴露しているし、ピギーはピギーでぜんそくやら目の悪さを理由に仕事をさぼっていたりする。また、物語の中盤では彼らもジャックとその仲間と一緒になって嵐の中踊り狂い、サイモンを殺してしまう。その後理性的になったあとは、自分がそのような行動をした事を隠そうとし、罪を認めない。ので、理性は悪いモノを押さえる事は出来ても、それそのものを消滅させる事は出来ないのです。

では、物語で一番純粋といわれるサイモンはどうか?私が思うに、別にかれは他の少年達にに比べて純粋でもなんでもなく、他の少年達と同様に悪いモノを内に持っているのだと思います。ただし、彼だけは自分たちの中に悪いモノが存在している事を知っていて、また認めていた。ジャックはそれを知らない。ラーフは気づいていなくもないけど、認めず考える事でなんとかしようとした。サイモンはそれに気づき、他の少年達にもそれを伝えようとした。

「ぼくがいおうとしたのは・・・・・・たぶん、獣というのは、ぼくたちのことにすぎないのかもしれないということだ」

「世界でいちばんきたないものはなんだか知っているか?」

でもその言葉は届かず、かれは殺されてしまった。ここでフッと気が付いたのが、サイモンの物語における役目って、イエス・キリストっぽくね?ということ。

・一人だけ「蠅の王」と対峙し、原罪を知っている。

・終わり(世界=島生活)について予言する。

「違うよ。ぼくは変じゃないよ。ただ、きみはきっと帰れるとぼくには思えるだけなんだ」

・唯一、世界の真実(山頂の死体は単なる人間の死体で獣ではない)を知っている。

・真実を伝えようとしたが、仲間に殺される。

・殺されるとき、天気が荒れた。(聖書によると、「全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中からさけた(ルカ23−44)」)

頭をかち割られてそのまま波に攫われて呆気なく消えてしまたピギーに比べ、光に包まれ海に流されるサイモンの死の描写のほうが圧倒的に美しい。聖書を調べたところ、特にイエス・キリストがその死において光り輝くという描写はないのですが、光に包まれるというのは何ともキリスト教的。

さて、サイモンが殺され、他の少年達が罪の意識を持ったかといえば、そんな事はなく、少年間の争いは過激になるばかり。最終的には大人に救助されますが、彼らは最後の最後まで「蠅の王」の言葉を聞く事も、山頂の獣の真実も知らないまま。ラーフにいたっては、かつてサイモンがいたのと同じ場所で「蠅の王」の側にいたにも関わらず、その声を聞く事が出来ず、身を守るので精一杯だった始末です。

私自身の思想からすると、「イエス・キリストが救い主である」と言う部分以外はキリスト教の考え方に親和的なので、「人間は最初から良くないモノだ」という主義はしっくりくるんですよね。たまたま現在進行形でキリスト教神学を勉強しているから、特にそういうモノの見方をしているのかも知れない。「蠅の王」というタイトルからして、キリスト教的なんですが、兎に角この小説、単なる「バッドエンドの『十五人少年漂流記』」と思って読まない方がいいです。

 

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