守るべきソーシャル・ディスタンスはソーシャルのままでいいのか?

この1年ちょい、常々変だな、おかしいなと思っていたのが、「コロナ感染対策に【ソーシャル】・ディスタンスを!」と世間で言われている点。お互いの距離を取れという意味であれば、人と人とが物理的距離の話なのだから、【フィジカル】・ディスタンス、もしくは単にディスタンスで良いではないか?と。例えば、私が列に並ぶ。前の人と2メートル離れましょう。これは物理的な距離の話であって、別に前の人と社会的に近づいたり離れたりはしない。大概は「たまたま同じ行列に並ぶことになった」だけの知らん人である。「その人と社会的に離れろ」とは、何を意味するのか?同じ行列に並ぶのは、社会的には似たもの同士 [1] … Continue readingと言えなくもないだろうが、その人と社会的に距離を取れとはどうことか。私か前に並んでいる人のどっちかが社会的な何かを変えなきゃならんということか?うーん、妙。 [2]一応、WHOは「ソーシャル」じゃなくて「フィジカル」って言おうよ!って言ってるらしいけど、全く定着してない。「ソーシャル」なディスタンスって何?

と思っていたら、同じ疑問を提示していたジョルジョ・アガンベンの「私たちはどこにいるのか?」を読んだのでご紹介。去年の〜7月までにイタリアで発表された文章なので、日本の状況とはそぐわないだろうし、翻訳者あとがきにも書いてある通り、表面だけ読むと「コロナはただの風邪」「ソーシャルディスタンンスは不要」と主張しているのかと勘違いされそうな本ではある。とは言え、その主張は中々膝を打つものだった。

 

私なりにまとめてみると、【今回のコロナ禍での政府の対応は既存の法やルールではなく「例外状態」であること、そしてそれを皆すんなり受け取っていること、医学が人々の「コロナ禍でのあるべき生き方」を決めているが、医学はこの状況に関して、かつて宗教が提示したような救いや贖罪など示しようがなく暫定的な治癒しか供給できないこと、健康「権」が健康「義務」になったこと、そして、その先には個々の人間が「機械(インターネットなど)を通した社会的距離」を保った、というより、断絶された人間の集合である全体主義に続くこと】こんな感じになるかしら。

医学的装置であったならば、それは「物理的距離確保」や「個人的距離確保」と呼ばれるほうが正常だったでしょうが、そうではなく「社会的距離確保」と言っている。これが新たな社会組織パラダイムだということ、つまり本質的に政治的な装置だということをこれ以上はっきり表現することはできないでしょう。

P144

政府の呼びかけである「お互いの距離を2メートル取りましょうね」、これは物理的距離確保の話だが、実際のところはコンサートやイベントの中止、大学の対面授業の中止 [3]アガンベンはこれも中世から続いた学生団体の終焉、と嘆いている。、親にも会いに行けないし旅行にも行けない、とはっきり言われていないけれども、本当の社会的距離もキッチリ遠くなっている。物理的な距離のことを社会的距離と呼び、真の社会的距離については何も言われないまま、当然のものとして遠ざかる。使うべき言葉の階層がずれているため、本来その言葉で表現し、きちんと考えなければならないものが宙ぶらりんになっているのではないか。

アガンベン本人も本書の中でたびたび示唆しているが、これはナチスへの道と同一なのではないか?この本の前に「近代とホロコースト」を読んだのだが、そちらでも以下の通り、科学や距離について触れていた。

 

科学はなによりもまず、驚くばかりの力をもった道具とみられ、それを手に入れたものには、現実を改良し、人間の計画と設計に沿って現実を再形成し、その自己完成に向けて科学を後押ししてゆくことが許される。

P142

あらゆる分業(たんなる命令系統の存在の結果としての分業も含め)は、共同作業による最終結果に貢献したほとんどの人と、結果それ自体のあいだに距離を作りだす。官僚的権限の鎖の最後の輪にある者が自らの作業を開始しようとするまでには、ほとんどの準備作業はそれを行ったという個人的実感のない、また時として、その認識さえない人間によってすでに終えられている。

P189

一応、ちゃんと主張しておくけれども、私は別に「科学が悪い!医療なんぞクソだ!くたばれ、分業!」と言いたいわけではない。科学や医療の恩恵はきっちり受けているし、最前線でコロナと戦っている医療関係者や保健所の方々や研究者に対しては彼らがいるからこそ、私はまだ元気に生きているのだと感謝しかない。(じゃないと、とっくに感染してるでしょうよ。)分業制だって、いまさら自分の生活を全部自分で支えろと言われても無理なのだ。そうではなく、「この流れはきちんと把握しておく必要がある」と言いたいだけ。バウマン曰く、ホロコーストは近代の官僚制と科学だけでは起こり得なかった。

近代国家の官僚制度の頂点に君臨する、非政治的な力(経済的・社会的・文化的な力)から解放されたグランド・デザインの提唱者。これこそジェノサイドの元凶だ。ジェノサイドはグランド・デザインが実行にうつされる過程の不可欠な一部である。グランド・デザインはそれに正当性を付与する。国家官僚機構はそれに媒体を与える。そして、社会的麻痺はそれに「ゴーサイン」を与える。

P215

つまり、ヒトラーその人。それが出てくると、あれよあれよとグランド・デザインに基づいた造園的「雑草」の除去が始まってしまう。そして今、幸いヒトラーはいないが、宗教化した科学と近代官僚制は変わらず存在し、人々の距離は【ソーシャル】・ディスタンスによって十分に保たれているので、なかなか危険度が高い状態なのではないか?まぁ、だからと言って科学や官僚制を捨てることもできないし、この状況下でノーマスク・ゼロ距離接触というのも難しい。我々は起こっていることを無関心に眺めるのではなく、一人ひとりがしっかり見つめて考えていくこと、その結果の多元主義こそが全体主義を防ぐことになるのでしょう。ある意味興味深い時代ではあるが、後世の人に「あの時は危なかったけど、踏ん張ったねー」と笑ってもらえるように頑張りたいところですね。

 


 

ついでに、アガンベンの本から考えたこと。「科学(医療)は社会的な距離だけではなく、生と死の距離も広げているのではないか?」そして、ちょっと怖い一言。

人間が純然たる植物的状態で維持された場所はこれ以外かつて一つしかなく、それがナチの収容所

P92

References

References
1 並ぶ理由が同じ=同じ目的を持っている=社会的地位や収入が似ている…と、言える。例えば数量限定の高級チョコに並んでいるのであれば、高級チョコを買う余裕のある収入がある、並ぶだけの時間的余裕がある、など。もちろん、金に余裕はあるが、時間に余裕がない人が、金がないが時間がある人に並ばせるなどもあるだろうし、絶対的にそうとは言えない。
2 一応、WHOは「ソーシャル」じゃなくて「フィジカル」って言おうよ!って言ってるらしいけど、全く定着してない。
3 アガンベンはこれも中世から続いた学生団体の終焉、と嘆いている。

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