像とかモニュメントとか

黙々と「大衆の国民化」を読んでいる。ちょうど今半分くらいまで進んだところ。気になった部分を書き出してみると以下の通り。

「語りかける建築」は、美しいもの、聖なるものの理想を直裁に明白な手法で象徴した。そうした実用主義は民衆にも容易に理解できたので、国民的祭儀の発展にとっては重要だった。

P94

揺るぎない記念碑は、多数の民衆の動き、歌、ダンスで取り囲まれることになっていた。しかしそれは「聖なる空間」に限られており、記念碑そのものの基本構造には及ばなかった。けれども十九世紀末になると、国民的記念碑そのものを、その構造自体のいて運動表現と融合する試みがなされた。

P116

人間の徳性を強めるという目的において、こうした革命祭典はキリスト教の典礼とさほど大差のない公的祭祀であった。だが、ここでいう徳性とは、古代の言葉で定義された祖国への愛情であった。その祖国愛は民衆自身の内に本来備わっているだろう徳性のシンボルを介して活性化する。祝祭は日常生活の孤独から人間を救い上げる特別な機会になるはずで、また規則的に繰り返されることにもなっていた。こうして聖なる日が規則的にめぐり来ることで、「キリスト教暦」と並ぶ秩序感がもたらされた。公的祝祭はただ群衆の熱狂を煽るのみではなく、普段の祭儀を利用して熱狂を創り出すようにも構想されていた。

P134-135

今まで読んだところを、ものすごく雑に要約すると、ナチス以前から、ドイツにおいては記念碑+その周りの環境(森、柏など)+体操、合唱などの運動がセットになって愛国というか、「ギリシャとゲルマンの伝統」への再帰が目論まれた。それが徐々に変容していって…ということになるのかな。

ここでふと思ったのだが、我が日本ではそういう記念碑ってあるのだろうか?唯一思いついたのが宮崎の平和の塔だが、それ以外にあまり思いつかない。「(大きめな)記念碑を建ててその周りに人が多く集まって何かする」という風習は宗教施設じゃない限り、あんまりないのでは?原爆の碑とかかな。しかし、あれはコンセプト的にドイツで戦前作られたものと真逆なような。

反対に、シンボリックな運動の舞台となった場所はどこかしらと考えてみたが、これまた唯一頭に浮かんだのが学徒出陣壮行会で、こちらは明治神宮外苑競技場が舞台。記念碑というよりはズバリ競技場、みんなでなにかするための運動場である。武道館などもこっちの系統。

良く考えたら中で一緒に祈る場がある教会と、基本は外でお参りする神社で大分違いがあるし、お寺は確かに大きな講堂とかあるけど、あれは一般信徒向けではない?だろうし。日本が特殊なのか、東洋全体がそうなのかわからないけれど、その違いが中々面白いと思う。実際に小さな記念碑(石碑とか)は日本のあちこちに溢れているわけだし、大きめの記念碑があんまりない(ように思える)のはなぜなのか、気になるところ。

そういえば、記念碑でふっと思い出したのだが、ロシア旅行をしている時は、もう本当にあっちこっちに、それこそ街から出ていく道路の横に突然!レベルで、第二次世界大戦での戦いのレリーフを見つけたのだった。おそらく「ここまでドイツ軍きたけど、勝ったぜ」とかそういう感じのだと思う。あっちこっちあるな〜、これ全部地図にピン留めしてったら面白いだろうな、と旅行中変なことを考えていた…という、かつての記録がしっかりあったので、こちらもどうぞ。

あぁ、誘惑のロシア旅行旅

Leave a Reply