Archive for the ‘哲学・思想・宗教’ Category.

臓器移植に思うこと

まず、今日の日本のトップニュース、北海道で行方不明の男児が1週間ぶりに見つかった件だが、21世紀最強の寒波が到来中だとか、雨だとか、熊だとか、諸々をはねのけて、よくまぁ生きていたものだと素直に感心しました。ネットでの大方の見方と同じく、私もてっきり事件だと思っていた。そう思った自分の品性のなさを反省する必要がありますね・・・しかし、そのタフさもさながら、発見場所が自衛隊演習場ということもあり、「将来は自衛官か」「むしろレンジャー徽章を差し上げろ」といったコメントも多々あった。まぁ、なんとなくそう言いたくなる気持ちもわかる・・・

さて、本題。臓器移植について、私はもともと「困っている人がいるなら好きなだけ使えば良いじゃないか」と、こだわりがないほうなのだが、最近「とはいえ、くだらんやつを生かしてもしょうがないのではないか?」と思うようになってきた。「くだらんやつ」というのは、社会的にも本人のあり方としてもの話です。「そんなこと言うなんて!命は至上です!」と言う人もいるかもしれない。「命は平等です。くだらないか、くだらなくないかで差別してはいけません。」と言う人もいるかもしれない。でも、命が至上で誰にでも平等なのと同じくらい、死も至上で誰にでも平等なことを忘れてはいけない。キリストのパンじゃあるまいし、私の体はどんなに分割しても一臓器お一人様(もしかしたら数人)向けである。それ以上は分けられない。ならば、少しでもくだらなくない人を生かしたほうが、世の中のためじゃないか・・・と、こういう思考です。幸い、臓器にも記憶があるとか話に聞くし、ならば「くだらんやつに移植したら、体の内から呪ってやるぞ」と事前に脅してみようか。そうすればくだらんやつはビビるだろう。

しかし、そもそも臓器移植を待つということは人の死を待つことに他ならない。なので、まだかまだかと待つ、そのこと自体がくだらないと言えるかもしれない。人の死を望み、自分の生を望む。それは正しい人のあり方として、許されるのだろうか?自覚してしまうと絶対にドツボに嵌るだろうこの問題において、どうしたら無自覚でいられよう?

まぁ、臓器提供してもしなくても私は死ぬのだし、臓器を待ちわびる人も、うまい具合に提供されてもされなくても、遅かれ早かれ必ず死ぬのだ。やっぱり私が脳死判定受けたら、好きにしていいや。

 

他人は別の生き物

例によって池田晶子女史の本を読んでいて、膝を打った。ちょっと長いけれども引用します。

で、そのようにして、時系列を創世の方向へ遡り、視野をうんと宇宙大にとってみると、それぞれの<魂>が、それぞれの仕方で、それぞれの人生を生きているという、当たり前と言えば、あまりに当たり前な光景が見えてくる。しかし、この当たり前が当たり前として明確に自覚されていないから、自分の理屈で他人を解釈できると思うその勘違いが生じるわけだ。しかし、それぞれの<魂>は、それぞれ別々の世界を感じているのである。それぞれ別々の仕方で、この宇宙を理解しているのである。それはそういうものなのだから、そうでしかあり得ないのだから、それはそれでいいのではないか。いかなる根拠によって人は他人を断じることができると思っているのか、私は常々疑問を覚える。

そうなのだ。こんなに当たり前のことを何故他の人は理解できないのか、私にも疑問だった。こういう考えをするとき、必ず頭をよぎるのが大学時代の恋バナである。何年生の頃だったかはすっかり忘れてしまったけれども、同じ友人グループの一人がとある男性を振り向かせたいと「話し合いをしに行った」らしい。それについての報告会というか、意見会というか、平たく言うと女子会に私も動員されたのだった。しかし、当時も今も、一体何を話し合うのだろうと、疑問でしょうがない。相手の心が自分にないのであれば、できることは「自分の好意を知ってもらう」ことぐらいで、さて何を説得するつもりだったのだろう?説得するだけで簡単に自分に振り向いてくれると考えることは、相手の男性にも失礼だし、「説得すれば振り向くような軽い男」を好きになるという、自分の品性の問題にも関わると、何故考えられないのだろう?と当時の私は思っていたのだが、言うと面倒なことになるのは明らかなのでおとなしくしていた。これらの疑問は形を変えて、相変わらず私の中で燻っている。

私は私の物の見方と判断基準で世界を見ている。その見方や基準を変えるか変えないか、決めるのは私であって、私以外の人や物はあくまで「影響を及ぼす」だけだ。私の世界の中心には私がいる。その場所から動けないし、動くつもりもない。他人は別の生き物である。他の人の全てを理解できると思ったり、自分の思い通りに動かせると思わないほうがいい。

 

哲学にはまったカエル、自分の体を疑う

ある日、クラウス君は一人で草原の中のちいさな石に腰かけて、一人手を握ったり開いたりしていました。握ったり、開いたり・・・また、握ったり、開いたり・・・目を開けて、閉じて。思いついたように、足を上げて、下ろして。そして自問自答するのです。

一体どこからが僕なのだろう?今、こうやって手を動かしたり、足を動かすのは、僕がそう思ったからに他ならない。でも、僕は自分の心臓を動かそうと常に思っているわけではない。呼吸だってそうだ・・・呼吸の場合、呼吸をしていることを意識しようとすると、むしろ止まってしまう気がする・・・でも、心臓については、心臓が動いていると意識しようとしても、多分止まっていない。心臓が止まったかどうか、僕にはわからない。僕の体の中にあるものは、明らかに僕の一部であるはずなのに、僕自身の意思ではどうしようもない。僕の意思で動かないものは果たして僕のものなのか?僕自身なのか?

それに、細胞だって!細胞のひとつひとつも僕なのか?細胞が分裂して、新しい細胞が生まれて、古い細胞が死んでゆく。その死んでゆく細胞も僕なのだろうか?死にゆく僕の細胞という僕。ならば僕はずっと死んでいることになるんじゃないか?そもそもどこからが命なのだろう?細胞?それとももっと大きなもの?僕の命はどこにあるんだろう?そもそも僕は命なんだろうか?命というのは生きているものに宿るはずだ・・・ならば、ずっと死んでいる僕は命ではないのか?

明らかに自分のものと思えるその体が、自分の思うままにならないその不思議さを胸に、クラウス君は手や足を動かして、ずっと考え込んでいました。

 

人と壁

人は往々にして「壁にぶつかった」というが、大体は乗り越えられる壁なんじゃないだろうか?

  • 壁の前で方向転換して、壁のない方へ向かう
  • 壁にハシゴを立てかけて登る
  • いったん後退して、助走をつけてグライダーで飛び越える
  • たまたま隣にいた人に「殴ってみたら?」と提案されてぶち破る
  • ノミで粛々と穴を開ける
  • 地下にトンネルを掘る
  • 他の人を踏み台にして飛び越える
  • 壁に沿って歩いて、壁の切れ目や抜け道を見つける

いろんな方法があると思う。「自分の性格上やりたくない」とか「とりあえず一発殴ってみたら骨折しちゃった」とかそういうこともあると思う。また逆に「殴ってみたら壁は紙だった」ということもあるかもしれない。壁にぶつかったら壁の種類を検討して、一人でなんとかできるのか、他の人の助けが必要なのか、それともそういったコストをかけてまで超えるべき壁ではないと決めるのか、どうするのかはその人次第。

もし、どうしてもその壁を乗り越えるしかないのに、どうしても乗り越えられない場合があったら、その時こそ人は死にます。つまり生きていて「壁にぶつかった」という人は、その壁は乗り越えられる壁なのでなんとかなるってことです。

 

哲学にハマったカエル、悪について語る

クラウス君たちが住むあたりも新緑の萌える季節になりました。水辺では菖蒲や杜若が花を咲かせています。そんな5月のある日、菖蒲の花びらに腰掛けて、クラウス君はチャーリー君と話し込んでいました。

「「悪」とはなんだろうね?人は最初から悪なんだろうか?性善説、性悪説ってよくいうけれども、本来、人は両方を持っているんじゃないかな?」

チャーリー君は全くだという顔でうなずき、クラウス君は続けます。

「でも、何が「悪」を「悪」たらしめているんだろう?例えば、戦争中の行為。人を殺すことは日常では悪なのに、戦場では善、いやそういう認識がなくとも、少なくとも悪ではないようだよ。神様がいるとしたならば、なぜこの世に悪があるんだろう?神様は悪も作ったのかな?ならば、悪は神様のうちにあることになる。」

「そんなのってあるかなぁ?だって、クラウス君の今の話じゃ、神様は悪でもあるってことだろう?神様は完全に善いものなんじゃないの?」

そこで二人はしばらく神様について語り合いましたが、なかなか難しい問題だということに気がつき、この話は今度ヨハン君と一緒に、亀のじい様に聞きに行こう!ということで落ち着きました。それゆえ、話はまた悪について戻ります。長生きしている分、クラウス君より人間界についてよく知っているチャーリー君が

「ヒトラーやスターリンがやったことは今の僕らからしてみれば紛うことなき悪だ。でも、当時の人にとってはどうだったのだろう?とくにヒトラーやスターリンのやったことについて賛成していた人、恩恵を受けていた人にとって・・・何より本人に悪の意識はあったのかな?」

とクラウス君の知らない人の名前を出してきました。「ヒトラーやスターリンって誰?」と質問したところ、チャーリー君にしてはそっけなく「昔、たくさん人を殺した人さ」と答えました。どうも、悪について、チャーリー君は真剣に考えているようです。普段のチャーリー君は考えずにしゃべっているように思えるのですが、今日は考えながらしゃべっているという様子なのです。何れにしても、チャーリー君は話し始めるのノンストップ、止まりません。「というかさ、悪とは時代によって変わるものなんだろうか?でも、善悪というのは出したり引っ込めたりできるものじゃないと思うんだよな・・・」

「そんな馬鹿な!悪いことは悪いよ。」クラウス君は思わず口をはさみました。

「でも、悪というのは「悪」という言葉でしか表現できないんだ。だから問題なんだよ。人のうちの中に普遍的な悪の概念があるんだろうか?」チャーリー君はしばし考え込んで、続けました。「言葉というのはそれだけで何かを表せるんだ。悪はさわれるものじゃない。だからこそ、悪の概念が時代によって揺らぐのかもしれないな。」

触れないからこそ概念が揺らぐというのは、クラウス君にもなんとなく分かりますが、しかし納得はできません。善いことはよく悪いことはわるいはずだ、と思っているからです。そこで、「でも、人を殺してはいけないということは、どの時代も共通して基本的には悪だと思われているんじゃないかな?」とチャーリー君に反論してみました。

「むしろ、悪という言葉があるから悪があるのかもしれないな・・・言葉ってのは不思議だねぇ!人を傷つけることもできる。言った途端に悪なんてものが実際にあるかのように聞こえる。昔の人は言霊だなんて言っていたけれども、言葉そのものが術のようなものかもしれないね。どうして僕らは言葉を獲得したのやら。」

チャーリー君はクラウス君の反論に真正面からは答えず、遠い目をして呟きました。

 

犬!

里親が決定した瞬間!あまりの嬉しさに最高に幸せなポーズを取ったワンコ

犬ってのは、まぁー表情の豊かな動物である。猫やハムスターや蛇もそうなのかもしれないけれども、飼ったことがないので私にはよくわからない。とにかく、犬は表情というか、感情を全身で表現することが多い。上のリンクなんかもそうである。

https://www.youtube.com/watch?v=30BV4dDy3PQ

このへんは鉄板ネタか。まぁ、こんなに喜んでもらえると飼い主冥利に尽きるだろう。昔大きなコリー犬を飼っていたが、彼専用の四駆を車庫から出す音を聞いた瞬間に「おでかけできる!」と大喜びだったし、四駆を出したものの、単なるホームセンターへの買い物で彼のおでかけではなかった時はひどくションボリしていたっけ。

しかし、どうして我々は「彼らが喜んでいる」とわかるんだろう?「犬には感情がある」というが、それは我々から見て「(喜ぶべき状況で)当然喜んでいるだろう」という我々の認識ではないのか?本当に犬に感情があるのか?人間が「犬に感情はある」と思い込んで、犬の行動に解釈を勝手につけているだけではないのか?

と、ここまで犬を飼ったことがあるとは思えないような発言をしてみたが、さらに深く考えてみると、今安易に使った「我々」というのも十分疑うべき存在なのだ。なぜ、私は「あの人が喜んでいる」と思うのか?私は「あの人」ではないのだから、「あの人」が本当に喜んでいるかはわからないではないか。そも、「私は喜んでいる」と客観的?に叙述する私は喜んでいる私と別物ではないのか?こうやって疑い始めると、デカルトさんの境地になってしまうので、話を元にもどします。そう、犬は愛らしい。犬の感情表現は人間との長い共生の歴史の間に、人間に合わせて身につけていったものであるようにも思えるが、いずれにしても言葉を話せない分全身で感情を表されるとこちらもたまらない。あぁ、犬を飼いたいなぁ。大きなジャーマンシェパードを飼いたい。そんなわけで最後に、大層賢くとても嬉しそうな犬の動画。元ネタである映画の有名なシーンの再現度が高く、見ていて幸せになれること請け負いです。

 

 

哲学にハマったカエル、「哲学」にハマる その2

「クラウス君、君さぁ・・・君がしようとしているそれは、本当に哲学なの?」

ヨハン君の質問に、クラウス君はキョトンとしました。「哲学だよ、どう考えても。哲学って言えばカントやヘーゲル、弁証法に現象学!違うかい?本屋に並んでいる哲学の本だってみんなそうじゃないか!哲学者の思想を勉強しないと哲学は学べないよ。」

「いやさ、哲学者ってのは哲学する人のことだろ?物理学者が物理を研究する人みたいにさ。ならば、哲学ってのは、哲学者がしていることをしないとダメなんじゃないかい?君が勉強しようとしていることは、物理を勉強したいと言いつつ、物理学者について勉強しているようなものだよ。物理学者は物理じゃない。物理学者が取り組んでいることが物理だよ。ならば、哲学だって同じさ。今までの哲学者が取り組んだことを僕らも取り組む、それが哲学するってことだと僕は思うよ。」ヨハン君は一息で説明しました。

「確かに・・・」素直なクラウス君はヨハン君の意図を理解しました。哲学者の考え方を学ぶことは、「哲学」の勉強であって、哲学そのものではないことに・・・そんなクラウス君を見てヨハン君は安心したように言います。

「だいたい、僕が前に言ったろ?ひとつずつゆっくり考えていけばいいって。いきなり飛びつくと大変なことになるって。哲学者は哲学した末の考えを残してくれた。僕らはそれを考える上で参考にすればいいのさ。『へー、こんな考えがあったんだ』って。そんなもんだよ。カントがどう考えたって覚えても、僕らの考える力そのものは何も変わらない。自分で考えなくっちゃ。彼らの思想は単なるガイドみたいなものさ。」

「でも、僕が一生懸命考えたところで、カントやヘーゲルみたいにちゃんと哲学できるんだろうか?」

「意外とできるもんさ。もちろん、歴史に名を残す哲学者のように、とはいかないかもしれないけれど。でもさ、自分が考えていたことをヘーゲルも言ってて『なーんだ!』みたいなこともきっとあるよ。」

クラウス君はヨハン君の励ましを聞いて、少し元気になってきました。「そうか!わかったよ。僕は僕自身で考えていけばいいんだね!でも、考える僕ってなんなんだ?」

ヨハン君が間髪入れず叫びました。

「それが哲学さ!クラウス君!!」

 

哲学にハマったカエル、「哲学」にハマる その1

カエルのクラウス君がなめくじのヨハン君の手ほどきで哲学の門を叩いてから、暫く経ちました。クラウス君は何か思うことがあるのか、あの日以来あちらこちらに出かけていたので、ヨハン君や魚のチャーリー君は少し寂しく思っていました。そんなある日、フラリとクラウス君が池のそばのヨハン君のお気に入りの場所にやってきました。

「ヨハン君、久しぶり」

「やぁ、クラウス君!本当に久しぶりだね。街に出かけたって聞いたきり、音沙汰ないもんだから、人間に踏まれちゃったかと心配したんだぜ。街は人間が多いからな・・・危ない危ない。」

クラウス君たちは田舎に住んでいるのであまり心配はいりませんが、街住まいの危険性について色々な虫や動物の体験談が出回っているのです。ヨハン君の心配ももっともでした。なんせ街住まいの死因ナンバーワンは人間に踏まれる圧死なのです。

「いやさ、哲学についてもっと勉強しようと思って。それならば人間の知識に頼るのが一番かなって思ったんだ。でも行ってよかった。色々勉強になったよ!ソクラテスでしょ、プラトンでしょ、それからアウグスティヌスにトマス・アクィナス、デカルト、ライプニッツ、カント、ヘーゲル、マルクス、それに・・・」

「わー!」これ以上哲学者のリストを読み上げられては堪らないとばかりに、ヨハン君は叫びました。「君は随分勉強したんだねぇ!」

「いや、まだまだだよ。」クラウス君はあまり嬉しそうではありません。「やっと哲学通史を一通りさらったんだ。でも、全然わからないんだよ。だから、ギリシア時代からひとつずつちゃんと勉強しようと思うんだ。でも、できる気がしない。僕は一体いくつになったら、十分に哲学を勉強できたと言えるんだろう?」

クラウス君は今にも泣きそうです。

 

六本木で坊主に囲まれて聞いた話

まず九州の地震で被害に遭われた方へ心からのお見舞いを申し上げます。

で、こんなタイミングで不謹慎かなと考えたのですが、だからと言って何もかもやめる必要はないと思ったので(だって、この考えって突き詰めて考えると、「日本で何もなくとも、シリア内戦で亡くなった人がいるから、生きていること自体不謹慎」ってなりません?)、通常運転に戻ります。

 

さて、昨日は先日の予告通り、六本木で禅のイベントに行ってきました。三部に分かれてのリレートークで、週末の六本木ヒルズに袈裟や作務衣姿の坊主が大集合していたので、買い物客や観光客はぎょっとしてました。ま、当たり前ですけど。参加者は男性女性年代に特に偏りなく(といっても20代以下はあまりいなかった様子)、お寺の檀家さんと思われる方もちらほら。部によっては、その辺のマンションに住んでるのかしら?と思わずにいられない成金っぽい人や、意識高い系(男性4名全員Mac持ち)がいましたが、まぁ、彼らと後ろに控えている雲水の違いよ・・・!清浄さってのはやはり日々の生活により、その人の雰囲気に出るのかもしれません。肝心の内容は箇条書きで。

 

・どの部も最初に黙祷、最期に座禅。熊本地震もあり、「揺れたら六本木ヒルズの係員の誘導に従って避難してください」と注意事項あり。なお、第一部の講師である横田南嶺老師(臨済宗円覚寺派管長)からは「最悪の事態になっても、これだけ坊主が集まっておりますので、皆様極楽に行けますよ」と、ありがたいんだか不謹慎なんだか、よく分からない保証をいただきました。

・平常心=造作のない心。当たり前の暮らし。

・お茶(お抹茶)=粉のみ、茶葉などのゴミもなし。究極のインスタント飲料。確かに、お茶を「普通に日常の中で」点てる暮らしというのは、精神的に良さそう。一通りの作法は知っているし、ポットでもできるのだから、お茶碗、茶杓、棗あたりを揃えておけば家で十分できそう・・・と思った。実家に余ってないか訊いてみよう。

・侘び=正直にあるがままに奢らぬ様

・禅=本来の自己になる。独服=自分のために立てるお茶。→文化的な部分だけではなく、精神的(哲学的)共通点がある。

・足元を見よ(「照顧脚下」)→西洋でいうmemento moriと同じ思考か?(これは私が話を聞いていて思ったことです。)

・西洋にはZから始まる言葉がないので、Zenはカッコよく聞こえる。

・「業」と「罪」。自分との関わりの違い。誰が最期に自分を裁くのか?自分自身か、神か。

・精進料理は食べる側ではなく、作る側の「精進」である。畑で野菜を育てたり、即ち修行。

・「くせ」とは自分ではない。そう気がつく自分とは何か?

・禅は突き詰めると「自分とは何か?」という問題の探求。それで人を救うのが坊さんである。

・禅の修行は日本的。メソッドとして確立されたものに加えて「目で盗む」、「和合(他者への思いやりや気遣い)」など。

・他者への思いやりを突き詰めると、自分の中の自分の割合が減る。(他者の割合が増えるから。)これぞ「無心」?

・世界平和については、まず、自分の中の平和!が禅の姿勢。日本人が日本で、ということではなく、どの国の人も、自分の中の平和を追求できるよう広めていくこと。

 

こんな感じです。この夏は禅について、いろいろ勉強してみようと思います。

 

最期にどうでも良いおまけ。とにかく、六本木ヒルズで坊主頭に囲まれて「清少納言は「坊主は声!」と言っていたが、ほんとだわ〜この優しそうな声・・・」とちょっぴりうつらうつらしてましたら、電話の着信が・・・ちらっと発信元を見たら会社の本部長からで、一気に現実に引き戻されました。本部長直々に休みの日に電話してくるというのは大抵の場合、ロクなことではありませんからね。「今出れません。六本木でお坊さんに囲まれています」と確信犯的に状況をメッセで説明し、とはいえ、やはり地震に関連しての呼び出しだったので、イベント後出社。案の定「六本木で坊主と合コンしてた」ということになってました。ちゃんと説明しましたが、そしたら「お前はどこへ行くつもりなのか?」ですって・・・

 

■追記 2016年4月18日■

清少納言先生は「坊主は顔!」とおっしゃってました。声じゃなかった。でも、顔も良い方でしたよ・・・

 

外相会議を評価する

この度、広島でG7外相会議があった。アメリカの現役国務長官が広島を、平和公園を訪れたのは初めてのことで、なかなか感慨深い。「広島宣言」が不十分だという意見もあるが、今回の訪問でオバマ大統領が広島に来る可能性もぐっと高まったことを鑑みるならば、これは成功と言えるのではないか。広島出身の岸田外務大臣と、今回のG7を調整した外務省は賞賛に値するだろう。駐日大使に続き、国務長官である。この段階でこちらの要望を全て要求し、次への道を狭めるよりは、少しずつ道を整備する方がずっといい。アメリカにはアメリカなりの事情があるのだ。それを踏まえて、お互いにとって最良の道を選ぶのがよろし。

さて、こちらの要望で、でも果たせなかったのが広島宣言に「核兵器の非人道性」という言葉を盛り込むことだという。「非人道性」というからには「人の道に非ず」ということだが、核兵器は人の道を外れたものなのだろうか?私個人、広島出身だし、原爆に思うことは多い。が、あえてそういう感情を突き放して考えてみると、本当に非人道的なのであれば、核兵器はアイデアの時点でなかったことにされたのではないか、と思える。いや、そもそも思いつきもしなかったか。最初に「核分裂のパワーを使えば!」と思い立った時。トリニティ実験の時。広島に最初の原発を落とした時。長崎に落とした時。人がその破壊力を認識する機会は何度もあったのである。それにも関わらず、戦後もソ連やイギリス、フランス、中国が続き、イスラエル、パキスタン、インド・・・と核兵器を求める国のリストは長くなる一方なのだ。人は明らかに核兵器に「人の世界での使い道」を見出している。今回の広島訪問後、ケリー国務長官が核廃絶に動くとしたら、それはとても素晴らしいことだ。でも、もしアメリカの国益を核兵器の非人道性よりも優先するならば?つまり、核兵器の存在を容認するならば?

あるものはある。しかも、物理学的に簡単に捨てられる兵器ではない。人の道のうちにあるが、限りなく外れていることは間違いない。とはいえ、それに有用性を見出している限り、核兵器は明らかに人のものなのだ。核兵器を最初にアメリカの問題ではない。核を今保有している国の問題でもない。これは核兵器をつくってしまった歴史を共有している人類全体の問題だ。核保有国の主張を非難するだけではなく、それが人類全体の、核兵器を作った「人間性」の罪であることも認める必要があるだろう。アメリカ人が落としたものは、状況が違えば日本人も落としたのである。

留学中にサマースクールで大量破壊兵器のクラスをとった。先生は私が広島出身なので、反核的な立場での意思表明を期待していたようだが、私がクラスで語ったのは「アメリカにはアメリカの事情があったのだろう」とちょっと拍子抜けすることだった。こうの史代の漫画「夕凪の街 桜の国」に

嬉しい?

十年経ったけど、

原爆を落とした人はわたしを見て

「やった!またひとり殺せた」

とちゃんと思うてくれとる?

という独白がある。もし、わたしが明らかにその影響で早死にしたら、同じことを思うのだろうか?3年間もわたしを受け入れてくれて、勉強してそれを正当に評価されるという、無上の喜びをくれたあの国に対してそう感じるのだろうか?わたしにはよく分からない。