Archive for the ‘哲学・思想・宗教’ Category.

何がなくなれば人は死ぬのか?

【ガチ】人は死の瞬間に“自分が死んだ事実”を認識することが研究で判明! 「医者の死亡宣告も聞いた」遺体には意識が宿り続けている(米研究)

ですって!

とはいえ、このタイトルには重要な点が抜け落ちている。正しくは、「【ガチ】人は心臓停止の瞬間に“自分の肉体が死んだ事実”を認識することが研究で判明! 「医者の死亡宣告も聞いた」遺体には意識が宿り続けている(米研究)」であろう。つまり、この記事は「心臓停止=ほぼ同時に脳死=人の死」と暗に定義しているんだな。しかも、臨死体験をした人による話。つまり心臓が再び動き出し、語ることができる人たちの話である。私からは一言。「その人は死んでいないのでは?」

結局、人は他人をその人の魂(精神、意識)+肉体セットで認識していて、目に見える肉体が動かなくなると、なにせ魂は目に見えないものだから容易に感じることができなくなり、「死んだ」とみなすのだと思う。が、今回の研究でわかったのが、実際に肉体は一瞬滅びかけても、魂は残っているケースもあるよ、と。であれば、魂そのものは存在しているわけで、はて、これは死んでいるのだろうか?心臓発作で死んだのは、誰なのか?心臓発作で死んでいる自分を認識する、これは、だれなのか?

「死体」は見えても、「死」はみえないのである。「死体」は物質だが、「死」は物質ではないのである。物質ではないということは、観念であるということであり、正確には、「言葉」である。死とは、「言葉」であり、また、言葉「でしかない」。(池田晶子「考える日々前編 P253)

思い出した。そういえば、魂の二分割論について、半年ほど前に人と話したっけ。(このブログにもまるっとアップしている。)結局今回の話もそれにつながるのだろう。私の体は、私なのか?

日本人は特別良い民族なのか?

「日本は素晴らしい!」「日本人は道徳心がある!」などなど、心くすぐられる海外の反応を見ていると、日本人が特別立派だと思いこみそうになる。が、果たして本当にそうなのだろうか?

例えば、多くの外国人が日本では、すれ違いざまに財布を落とした人がいたら、盗まず落とした本人に声をかける、追いかけて手渡す人ばかりで、そのまま盗む人が0だったことに感銘を受けていたりする。が、この時、財布を拾った人の中では「良心」と「生きるために必要な金・盗みがばれた時のリスク」を一瞬のうちに秤にかけて、「良心」を取っただけではないのか?つまり、人のお金を盗むほど、生活に困っていないだけであって、超お金に困っている場合はどうかわからないし、幸い、日本では一瞬のうちに良心<金に思考回路がつながってしまうほどに困窮している人が世界と比べて相対的に少ない、というだけだと思う。

他国においても、例えばアメリカのゲーテッドコミュニティーの中で同じことをすれば、日本並みに良い結果が出るだろうし、日本も(あまり想像したくないけど)某世紀末並みに治安が悪化すれば好き放題やる人が出てくるに違いない。

というわけで、「日本人が本質的に、他民族に比べて特別素晴らしい民族」なのではなく、道徳的に立派そうに見えるのは、単に環境・社会と、そのもとになる教育の徹底故である。まぁ、そのような環境や教育をシステムとして回せている日本人はやっぱりすごいじゃない!!と言われたら、なかなか言い返せないんですけどね。

これは完全に想像なのだが、一般的に「日本人は無宗教だから」というこの部分に結構ヒントがあるのかもしれない。つまり、日本人には罪を許し、来世の幸せを確約してくれる全能の神を信じている人は少ない。(仏教もそういう神の存在を約束しているわけではない。まぁ、宗派によって捉え方は違うでしょうが・・・)となると、自分で自分を律しないといけない→あるべき人間=真善美を目指す、みたいな意識がどこかに流れているとか?頼るものがないと、自分が頑張るという心理?どうもうまく言えないな。

いずれにしても、人間の最も根源的な本質であり、それゆえ体現するのが難しい「真善美」、これそのものは、間違いなく国やら民族には関係ないのです。

 

なぜ私は池田晶子が好きなのか?

    

帰りがけの本屋で見事な女三点盛りを買ってしまった。「タラレバ娘」の結末にはまぁ、不満が残るものの、結局漫画だしね・・・という感じ。問題は私の33歳はあと2ヶ月で終わるということである。きゃー!「深爪式」はこれからお風呂の中で読みます。

さて、この3冊の中ではちょい硬派な池田晶子の本。これは没後10年の記念出版ということですが、「幸福に死ぬための哲学」と同じく、今までの本の中からの抜き出しです。

色もデザインも内容も、ほら、対になっている。「幸福に〜」の方も以前図書館で借りて読んだのだが、なんせ元ネタの本をほぼ読んでいるので、買ってはいない。なのになぜ「絶望を〜」を買ったのかといえば、単に本屋で見かけたからである。本屋の魔力、かくの如し。

と、おバカなことはさておき、そして、これからもおバカなことが続くのだが、今更ながら「すでにほぼ読んだことがある文章から10行くらい抜き出してまとめただけの本を買うほど、なぜ、私はこんなにも池田晶子が好きなのか?」と考えた。考えながら、駅からてくてく歩いて帰ってきた。以下、考えた結果です。

  1. 美人:「は?ふざけてんの?」と言われそうだが、これでも大真面目です。人間、いつだって美しいものが好きなのだ。一般的に了解されている美しさの範囲から外れた人(端的に言うとブス)が好きな人もいるだろうが、その人はその人なりに好意の相手に美しさを見出したから好きなのだろう。それは見た目じゃない内面かもしれないし、まぁ、見た目が美しく見えたということもあるかもしれない。大体「美しさ」なんて概念であって、モノではない。私にとって池田晶子は美人だ。だから好きなのだ。
  2. コリー好き:これは単なる親近感。私もコリーを飼っていたことがある。実は、個人的にはジャーマンシェパードのほうがより好みではあるんですが、大型犬には心通じるものを感じるという、その感性。よくわかる。というわけで、親近感。
  3. 考えの一致:宇宙物理に国際関係論とあっちこっちへ飛んではいるが、私はもともと哲学少女である。とはいえ、「ソクラテスがー」とか「カントがー」とか、そういう勉強の仕方はすこぶる苦手で、たまーに哲学書(いわゆる解説本も含める)を読んでは、それを咀嚼しようとする、しかし咀嚼に時間がかかるから嫌になる・・・というのを繰り返していた。途中キリスト教神学に走ったのも、ある意味そういう意味では勉強しやすかったからなのだ。でも、(別に極めたわけではないので結論というのはおこがましいのだが)、結論として、2013年に書いた以下の記事のように、「どーもキリスト教の世界観は私の世界と違うぞ」と気が付いていた。そんな中、またちょっと他の分野に浮気して、戻ってきて池田晶子である。まー、ピッタリはまりましたよ。「あ、なんだぁ。あのことはこう言えばよかったのね!」みたいな感じ。「よくぞ言ってくれました!あーすっきり!!」みたいな感じ。わかるかな?

合わせ鏡とカール・バルトとブラックホールの特異点と

「結局なんなのよ。全然よくわからない」と感じる方がほとんどだと思う。そういう人は読んでみると良いのだ。たかだか120ページ強しかないのだから。それで興味を持ったら、全文読めば良い。ハマる人にはハマるし、ハマらない人には、ハマらない。ハマった人は是非、語り合いましょう。

目下の問題はこの本、あの人に送ってみたいけれども、ハマってくれなかったら、私は非常に悲しく感じてしまうだろう、ということ。それが怖くて2冊は買えなかった。お値段1000円(税抜)です。ランチ1回分で宇宙の深淵を覗くとしたら、安いものじゃありません?(そして人間関係の終焉には高くつくのだ。)

折り紙の宇宙

  

今年に入ってから地味に取り組んでいるのが折り紙。広島県人なので、鶴を折るのは昔から得意なのだが、他の折り紙となると子供の頃に作ったパックンチョだったり、やっこさんだったり、あとは精々会社で机の上のゴミを捨てるための小箱くらいしか作ったことがない。ではなぜ突然始めたかといえば、単に人の影響である。「子供の頃のバイブル!」なんて言われたので気になったのが、上の「ビバ!おりがみ」。図書館にあったので、借りてパラパラと眺めたところ、どう考えても4歳時のバイブルにはなり得ない(つまり、その人はよっぽど早熟だったか、変態だったのだろう)のだが、せっかくだし・・・と、折り紙を買い求め、一番最初の流れ星を折ってみた。この時点でわかったのが、私は意外と手先が不器用だということ。毛抜きですいばりを一発で抜けるので器用な方だと思っていたんだけど、どうも違うな・・・と少しショックを受けたりした。(そして、変態さんには笑われた。)「リスなら簡単ですよ」と言われて、チャレンジしてみたが、何度やってみても手の部分の折り方がわからない。最終的には「紙の声を聞くんです!」とか、全く役に立たないアドバイスをされる始末で、これじゃ悪魔なんて絶対無理ね・・・と失望しつつ、期限が来たので図書館に返却したのが「ビバ!おりがみ」だったのだ。

しかし、ここで止めてしまっては、変態氏のなかで「リスの手も折れない女」という評価になってしまうし、何より買った24センチ四方の折り紙をムダにしないため [1]一般的に一人暮らしの三十路の女に必要なものではない。、もう少し入門編からチャレンジしようと(そして地道に時間をかけれるように)「本格折り紙」を購入したのだった。少し折り方が違うが、リスも折れ(手もちゃんとある!)、気を良くしたので一気に中級編の「立ち姿の鶴」に手を出したが、これは私にはまだ難しかった。反省して、入門編に戻って修行しているところです。

さて、そんな中、タイムリーにTwitterで流れてきたのがNOVA DocumentaryのThe Origami Revolutionという動画である。

もともと、折り紙の話をしている中で(つまり、なぜ私はリスを折れないのか?という話の中で、ということなのだが)、折り紙は工学系に応用されていることが多い、例えば人工衛星など・・・と言うことは教えてもらっていた。DNAの話もした気がする。が!今回の動画ではその他にもとても面白く感じた点が何個かあったので、ここで共有したいと思う。

 

1)脳の構造理解への応用

あのシワシワの脳、シワシワの方が表面積が増えて云々というのは、昔から知っていたが、それが視覚的に見れたのが面白かった。人工衛星のソーラーパネルと同じように、小さな場所に大容量のものを容れようとすると折り紙の原理が使われるということだといえばその通りなのだが、そういうものの見方の転換というのが、新しいことを知る醍醐味だったりするのです。

 

2)自然界における「折りたたみ」

これも同じく、例えば木の芽の中に葉っぱがどのように折りたたまれているか、という話なのだが、実際の馴染みのある、葉っぱの葉脈のあの構造が折りたたむためでもあるというのは新鮮だった。

 

3)宇宙の構造理解への応用

これが私にとって一番の驚きというか、まさしく「エウレカ!」な発見だった。宇宙がビッグバン [2]正確にはインフレーション?から始まったこと、これは知っている。宇宙はそれ以降拡大し続けていること、これも知っている。宇宙に存在する銀河系の構造、これも知ってる。この宇宙において、人間が判別できているのはわずかしかなく、ダークマターと呼ばれる、謎な物体(天体?物質?)が存在しているということも知っている。なぜならば、私はもともと宇宙論専攻志望だったからだ。しかし、折り紙の応用でビッグバンもダークマターも説明できるかもしれないことが、この動画を見てわかった。ビッグバン以降宇宙は折りたたまれていた折り紙が開いていて(だから宇宙は拡大している)、まだ折りたたまれている部分がダークマターなのだろう・・・と、実際に動画の中での解説が始まる直前にピーンときたのです。まぁ、動画は英語ですし、専門的な単語まで聞き取れてはいないので、本当にそう説明されていたかどうかはわからないんですが、少なくとも私の中ではとても腑に落ちたのだ。もちろん、私の頭の中での折り紙の展開は二次元というか平面への展開でしかなく、本来宇宙は三次元、もしかするとそれ以上の次元にも展開が必要なのだろうから、イメージとして不十分なのは承知している。でもいいの、私の中ではとても納得できたから。

 

まぁ、動画全体を通して言えるのが、「こいつら、変態級に頭がいいな・・・」ということで、よくまぁ、一枚の紙からあんなものを作り、それを理論的・数学的に考えられるなぁと呆れることしかできない。ということで、私の最終的な結論として、ひとつ確実なのが「折り紙好きは変態である」。これは間違いなかろう。

 

References

References
1 一般的に一人暮らしの三十路の女に必要なものではない。
2 正確にはインフレーション?

魂の二分割論

とある人に宿題で出されて、数日頑張って書いて提出したのに(流石に長すぎるのでLINEのノート機能使って)、思いっきり駄目出しされて、今年初凹みだったので、こっちでも公開しちゃいます。原文ママなので、ググられると一発でブログバレしちゃいますが、もういいもんね!!!


「人の体を半分にし、失った半分をサイボーグとして、要は一人の人間から二人の半分サイボーグを生み出した場合、人の魂はどうなるのか?」結論から言えば、「そんなの、やってみなければわからない」である。そもそも魂とか、感情とか、意識とか、記憶とか、そういった言葉の定義さえ曖昧である。意識と感情とを分かつものはなんなのか?ただ、今これらの言葉の定義を考え始めると先に進めない。よって、今回はなんとなくこれらの言葉を使う事にする。

さて、では実際、人ひとりからサイボーグを2人生み出したら、どうなるのだろう?先ずは「感覚」。最近は人の筋肉の神経系信号を読み取り、かなり正確に動く義手も作られている。近い将来、義手からの信号を筋肉が読み取り、感覚としてその人が認識する事もできるようになるだろう。であれば、サイボーグには「感覚」はある、と言える。では、もう一つ進んで「感情」は?周りの環境にただ反応するのではなく、それに対して「好きだ」「嫌だ」の感情を持つ事は可能なのだろうか?

ここで問題になるのは感情を持つ主体だ。一般的に、というか当たり前に、そういった感情を持つのは「わたし」である。否定も肯定もできない存在、ただそこにある「わたし」。「あなた」には絶対になれない「わたし」。この「わたし」こそが、感情を持ち、「わたし」を私として意識し、あなたを認識しているのである。では、この「わたし」を分割する事は出来るのだろうかと考えれば、答えは「多分できない」。

例えば、臓器移植に伴う記憶転移。記憶が「わたし」そのものではなかろうが、わたしの中にわたしの記憶は確実に含まれている。であれば、臓器移植によってドナーの記憶や嗜好が現れた(と思われる)記憶転移は、「わたし」が臓器にくっついて、レシピエントのなかに取り込まれたと言えるのかもしれない。が、例えば、怪我で腕を一本失った場合、その失った腕にもわたしが宿っているのか?これはわたし本体にとっては大いに謎である。もしかすると「こんな下らん怪我をしよって」と不満を垂れているわたしも腕のなかにいるのかもしれないが、さて、そういう不満をいうわたしはわたしなのか?わたしはわたし本体をわたしと認識しているので、腕のなかのわたしは「腕のなかのわたし」であり、わたしではない・・・案外、命として(命とは?)生き延びた方(臓器移植では唯一他人の中で生き延びることができる臓器、手の切断に於いては、生き延びる体)にのみわたしが残っているだけかもしれないが。

これ以上「わたし」問題について書くと、わたしがゲシュタルト崩壊した挙句、「たわし」とか書きそうになるので、この話はここで切り上げるが、結局同じ事は二人のサイボーグにも当てはまる。二つのものに「わたし」は同時には現れない。必ずどちらかが「わたしではないわたし」になるだろう。この状態を回避する唯一の方法は「世界そのものがわたし」という見方なのだが、これは別の話なのでまた今度。

とにかく、感覚は間違いなく半分機械の体でも存在するだろう。元の体の分割の方法にもよるだろうが、感情もありそうだ。脳を含む方がより強固かもしれないが、臓器移植の記憶転移が実際にあるのであれば、肝臓でも心臓でも、残りの部分が機械ならば、臓器に宿った意識が機械の部分を圧倒し、何かしらの意識や感情は持つことは不思議ではない。ただ、それが分割前と同じ「わたし」かといえば多分違う。例えるならば、「りんごを半分に切ったら、半分のりんごはりんごには間違いないが、りんご丸一個そのものではない、違うものだ」といった感じ。問題は最初のわたしとサイボーグになった後のわたしの連続性の有無である。論理的には違う存在なのだが、それでも趣味趣向や感情は元のわたしを継承するのだろう。新しい体には無感情な(なのかは誰にもわからないが)、機械しかないのだから。

グダグダ書いたが、やはり、実際にやってみないことにはわからないのである。体半分のサイボーグ化は生きている間に難しそうだが、臓器提供者にはなる可能性がある。しかし、他人の体の中の肝臓に宿るわたしがいくら自己主張しようにも、ものを書く手も、話す口も持っておらず、やはり真相は闇の中のままなのだ。

間接的に人の死を願う?

またまた池田晶子女史の本を読んでいて考えてたこと。週刊誌での連載をまとめたものなので、当時(1990年代終わり〜2000年頃)社会を賑わしたことを取りあげていることが多いのだけど、そのうちの一つに保険金殺人の話があった。最近はあまり保険金殺人のニュースを聞かないように思うが、さてはて、これは純減しているからか、それとも単に私が世間に追いついていないだけなのか。新聞はとっていないし、テレビも持っていないので、ニュースの類は専らネットである。それで公平性を保って情報を手に入れられるのか?と言われそうだが、そもそも、それは新聞やテレビを見ていても同じことである。どのみち世の中のニュース(事件や政治等)全てを知ることは出来っこないんだし、今のままで十分です。

さて、とにかく保険金殺人について。

いったい、この「他人に保険をかける」というのは、どのような発想、どのような心性なのだろうか。(中略)ましてや、自分の子供に保険をかけるというのは、どういうことなのだろうか。将来その子が稼ぐべきはずの金を見越して、ということなのだろうか。その金を失うのが惜しいから、保険をかけておくということなのだろうか。それとも、同じ死なれるなら、タダで死なれるよりも金が入った方がいいから、それで保険をかけておくということなのだろうか。

そもそも保険とはなんなのだろう?と考えてみると、それは本来的には死んだ命そのものではなく、死んだことによる生活上損失に対する補填なのではないか?つまり、命そのものに金額が付いているのではなく、命を失うことにより失われる生活に金額が付いているのが本来の保険なのだろうと思う。となると、そもそも子供に生命保険をかけるということ自体、妙なことになる。子供が順調に育っても、その稼ぎが親のものになるわけではないからだ。まぁ、仕送りとか老後の面倒とかそういう期待値はあるだろうが、そのことも、ものすごく潔癖な視点から見れば、(子供を産み育てる目的の一部として)不純である。人の命、人の人生をそのような不純な眼差してみるのが人として善いことなのか。そんなわけないですよね。

他人に保険をかけるという発想自体が、その人の死を願うということでしかないとしか私には思えないのだが、違うだろうか。

これは極論。「生活上損失に対する補填」、これくらいは許容しないと、多分この社会は生きにくい。保険をかけるかどうかではなく、保険をかけた上で「ちらりとでも(保険金に目が眩んで)その死を願う」か否か、そのラインがむしろ、人の品性を決めるのでしょう。本当のことを言えば、「ちらりとでも人の命をお金に換算する」か否か、こそが品性の正しい見極めラインだと思うのだが、その場合、そもそも保険というものが成り立たないのです。

同様に脳死による臓器移植についても、「臓器が欲しい」と願うことは、すなわち人の死を願っているのではないか?と疑問を呈していたが、これも、ものすごく純粋な立場からの発言だと感じる。まぁ、私自身は心身ともに健康で臓器を欲しいと願うよりも、なんかの拍子で提供者になる可能性の方がまだ高いと思われるくらいなので、「臓器提供がないと死んでしまう」というギリギリのシチュエーションは想像もできない。なのであくまで提供者になるかも知れない立場でしか考えられないわけだが、その立場として池田晶子女史の意見に賛成なのは「提供するならばより善い人間に」である。30数年、食べ物に気を使い、酒もタバコも嗜まず、大事にメンテナンスをしてきたこの体、いくら望まれたと言えど、くだらない人間の一部になるのは釈然としない。ただ、脳死というのは突然だし、やれ血液型やなんらや、望む人間に望むタイミングで我が臓器をお渡しすることは難しい。というわけで、この秋更新した運転免許の裏は以下の通り。


「私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植のために臓器を提供します。(臓器の制限なし)」

「特記欄:提供先は自衛官、消防士、警察官、海上保安官に限る」


ものすごく安易に職業で分けてみました。他人の(身の)安全を直接に守る人たちを、私は尊敬しているので。志低くその職業を選択した人もいるだろうし、汚職警察官もいるし、淫行自衛官もニュースになっているが、その辺はしょうがない。魂のありかという意味では、まだまだ考える必要があるが、移植した臓器には前の持ち主の心が宿っているとしか思えないような現象が現に起きているというし、万が一、くだらない人間に移植されたら臓器(心)の底から呪ってやろう。同時に、他の職業で志高く、他の人のために日々邁進している方もいようが、その辺も目を瞑る。特記欄にはこれ以上書くスペースがなかったんである。問題はこの手の仕事をしている人は、臓器を必要としていなさそうなことだ。次の免許更新まで5年、多分問題なく生き抜いているはずだが、どこでどうなるかわからないのが人生である。その時は、その時。いいようにしてください。

 

善い人間を目指せ

Twitterでは数日前に話題にしたが、やれFacebookだのTwitterだのInstagramだのといったSNSで(イケてる)ファンを作って、その(イケてる)ファンに拡散してもらおう!という、なんというかオシャレ系お仕事の典型みたいなことをやっている学生が会社にいる。まぁ、時代も時代ですし、かくいう私もインスタは料理と温泉と風景ばかりといえどやってますし(Twitterは目も当てられない惨状だが)、これからの時代のビジネスの方向としては確かに間違っていないと思う。ただその子、イケイケ度というか「私オシャレな仕事しているオシャレな女子なんです!」オーラがものすごい。2ヶ月ほど前だったか全社ミーティングの場での発表は「アンバサダー」だとかなんとか、横文字のオンパレードで、そもそも「いっそがしい曜日なのに、ミーティングたぁ、かったるいな」という体で聴いていた私の感想は「すごい、意識高い系の女子って初めて見たわー」という完全に時代についていけないおばさんそのものだった。

さて、このイケイケ女子であるが、たった一つの行動で私の中の評価はがた落ちである。私は「彼女が困っている人を助けなかった」、その場面に居合わせた。困っている人がやっていたのは雑務である。ドアに引っかかって、台車に積んでいた荷物を床にぶちまけてしまっていた。それに気がついてしかるべき距離にいたのに、何もしない、その「仕事に貴賎がある」とでも言いたげな態度。私にはこれが許せない。聞こえなかったのでは?と擁護したくなる方もいるでしょうが、聞こえないはずないんである。社内でも大声で有名な(しかも図体もデカイ)私が「わー!!崩れてる!わー!!拾う、ひろう!!」と大騒ぎしていたからね。まぁ、私は彼女ではないんだし、実際のところ「自分の仕事はオシャレで、雑務はダサい」と思っているかどうかは知る由もないが、人の行動というのはこのように評価を分けるのだ。もちろん、私自身が彼女を責めれるほどに善い人間かといえば、それは太宰治ではないが「恥の多い生涯をおくってきました」。

そう、今までの「善い人間にあるまじき行動」を恥じ、これから少しでも善い人間になれるか、が重要なのではないだろうか?善い人間であろうとしない人間は絶対に善い人間ではないのだ。なぜならば、善い人間を知らないからだ。善い人間が何かを知っていれば、人は必ずそれを目指す。最近つとにそのように感じる。それは、また別の人の話になるが、そのように善い人間を明らかに目指している人に出会えたからかもしれない [1] … Continue reading。一般的に人はその辺無自覚なんだろう。だからその人が善い人間であろうとすることが余計いい意味で引っかかった。それはとても好ましいもので、あぁ、この人が目指すように私も善い人間を目指そうと思える。そういう出会いってとても幸せなものですね。

というわけで、無理くり池田晶子女史の言葉で締めます。

人にとって本当に大事なことは、じつはひとつしかないのだから、自分が大事だと思う人は、必ず大事だと思ってくれているものである。

心からそう望む。

References

References
1 ただし、本人としては無自覚に近い可能性もある。善い人間を目指す、のではなく、「正しい自分でありたい」「みっともない自分はいやだ」とかそういう心象か。

哲学にハマったカエル、神を語る その2

ヨハン君がクラウス君の一言で、神と言葉について新たに考えを巡らせているのと同じ瞬間、クラウス君は自分が何気なしにつぶやいた一言の重大さに気にも留めず、更に考えを進めています。

「神は言葉でしか表せない・・・神は人の認識の限界を超えている・・・」「そういうものは他にあるんだろうか?認識の限界を超えている、言葉でしか表せないもの・・・」

「あぁ、そうだ!無限だとか無だっ!」いきなりクラウス君が叫んだので、ヨハン君は葉っぱから1センチちょっと飛び上がってしまいました。「何が無限や無なんだい?無限と無じゃ正反対じゃないか!」

「いや、神様のことだよ。言葉でしか表すことができない、僕らの認識を超えたもの。無限だとか無もそうじゃないかい?限りなく存在することも、限りなく存在しないことも、僕らは想像しようにも想像できない。言葉でしか言えないんだ。だから、無限も無も神と同じなんだよ、きっと。」

「なるほどねぇ・・・」ヨハン君はクラウス君の直観の良さに感心しながら、その考えを自分が言葉について考えていたことと、頭のなかで組み合わせようとしました。「となるとさ、クラウス君。死はどうなんだい?」「死を僕らは認識できない。僕の死は死んだ僕には認識できないはずだ。君の考えに従うと、死も神と同じなのかな?」

今度はクラウス君が深く考え込み始めました。「無限や無ならば、果てしない感じが神様と同じようだけど、死じゃあなぁ・・・大体、死は生と対になっているものだ。死も神と同じならば、生もそうなるのかな?つまり、僕の生が神だと?」

クラウス君もヨハン君も、思考の迷路にそれぞれ彷徨い込んでしまい、しばらくお互い口を聞くことなく、静かに考えていました。

 

 

哲学にハマったカエル、神を語る

夏の暑い日、クラウス君は干からびそうになる体に、たまに池の水をすくってかけながら、ヨハン君が根城にしている草の陰にやってきました。

「やぁ、クラウス君!こうも暑くっちゃ、僕、一歩でもひなたに出た途端に干物になると思うよ!」と挨拶するヨハン君に「君の想像は間違ってないと思うよ。僕でさえカエルの干物になるところだったんだもの」と返事をして、クラウス君はさっそく本題を切り出しました。「この世界に神様っているの?」

ヨハン君は2度瞬きをしました。それは決してクラウス君の背中越しに突き刺さってくる太陽光線が眩しいからではありません。あまりに突然で、あまりにザックリとした、しかしあまりに本質的な質問だったため、一瞬理解が追いつかなかったのです。「え?神って、あの所謂あの神かい?一神教?多神教?」となんとか数秒後に反応したところ、クラウス君はまた事もなげに「今回は一神教の方」と答えました。「というかさ、ヨハン君。亀のじい様のことを人間は神様っていうでしょ?あれは一神教の神様と同じなんだろうか?」

今回の質問は最初のよりは反応のしようがあります。ヨハン君は答えました。「亀のじい様は偶像の神様なんだ。人間が勝手に亀のじい様にありがたいと価値をおいているだけなんだよ。亀のじい様の場合はその長生きさにだろうな。人間は皆、長生きしたいと願うから。だから亀のじい様の長生きさがありがたいのさ。お金が欲しいと願うから、お金がありがたいと思うのと一緒さ。偶像崇拝なんだよ。亀のじい様自体に神性があるわけじゃない。亀のじい様の長生きさにはあるかもしれないけれどね。」「実際思い出してみるがいいさ。じい様、きっと眠いから、最初に哲学の話をし始めた君を僕のところへ寄越したんだぜ!」ヨハン君は調子に乗って言いたい放題言います。「そう、最初の質問だけれどもね。だいたい、いわゆる神様だって僕らが考えたものだ。僕らの想像力は僕らの想像出来る以上のことは想像できないんだ。だから、僕らが考えたギリギリの存在が神様なんだよ。壁の向こうの存在の様子だなんて誰にもわからないからね。自分を超越した存在を言葉で語れるわけはないだろう。でも、個人的にはなにかしら超越したものの存在はあると思うよ。前に話した合わせ鏡の話さ。」

調子の出てきたヨハン君にクラウス君はさらに質問します。「でも合わせ鏡の先にいるものに対しては、神様っていう人っぽいものは感じなかったなぁ。でもさ、よくいう神様はとても人っぽいよ?信じない人を懲らしめて、良い人を生かしたりして・・・」

「だからそれが僕らの想像力の限界だと思うんだよなぁ。あぁ、そういう意味でイエス・キリストは、砂時計の真ん中、あちらと僕らの想像力の限界であるこちらをつなぐ存在なんだよ。彼やイスラム教やユダヤ教でいう預言者がいないと僕らは神とつながる事ができない。もちろん、キリスト教において、イエス・キリストは三位一体論で神と同じものと考えられているから、人間である預言者とは少し立場は違うかもしれないけど。」

ヨハン君はにそう言われても、なんとなく釈然としないクラウス君は、一生懸命、神様の姿を想像しようとしました。が、考えれば考えるほど、ヨハン君が言う通り、自分を超越した存在である神を想像するのは不可能ではないか?と思えてきます。「僕たちは神様を姿で想像しようとするからダメなのかもね。姿や形じゃないとしたらなんだろう?言葉かな?」クラウス君のこのつぶやきに、ヨハン君の表情がパッと変わりました。

 

否定神学と自己認識の果て

   

 

渡邉恒夫の「輪廻転生を考える 死生学のかなたへ」を読んでいる。この本によると、古代インド哲学において「真の自我(アートマン)は、〜ではないとしか表現できない」ものらしい。この部分を読んで思い出しだのが、キリスト教の否定神学である。ググってもいい定義がないので、手持ちの神学の教科書(英語)から引用するが

An approach to theology which stresses that God cannot be known in terms of human categories. (McGrath, Christian Theology)

つまり、「神は人間の言葉では表現(定義)できない」ということで、まぁそのまんま同じなんである。私がよく使う例えで言うと合わせ鏡の先にあるもの、これが自己でもあり神でもあるのだろう。それを語る(に語れない)、その方法も同じとは。いよいよもって神も自己も同じようなものだと考え始めた次第です。

ちなみに、ちょっと前に「自分を好きになるというが、その自分とはなんなのか?」とベストセラーに喧嘩を売った。そのときに

否定も肯定も自らその対象とすることができない「私」

なんて書き方をしたんだが、これはこれでやっぱり同じことである。我ながら気に入っている。

喧嘩を売ったつもりだったの・・・