2020-10-17, 11:08

ジジェクの本には全く歯が立たず、修行気分でとりあえず読みきった過去があるので、戦々恐々しながら読み始めたのだが、一部「?」はあったもののなんとかいけた。薄かった上に、時事問題だったのが勝因?なのか…とはいえ、時事問題ゆえか、それとも私がやっぱりジジェクの主張を理解できていないのか、文章としてまとめることができないので箇条書きで気になった点を挙げておきます。
- 中国政府は人民を信用せず、人民も政府を信用していない。他の国においてもソーシャルメディアによる陰謀論、フェイクニュースなどの影響で、国民が政府を信用していない。これでは感染は止められないだろう。
- 新自由主義では個人の内に階級がある。つまり、自分で自分を搾取している状態。ただし、同時にパンデミック下においては「1)西側先進国での自己搾取の労働」「2)第三世界の疲弊させる労働(製造業など)」「3)介護職やウェイターなど人をケアする労働」の3つの労働があり、2、3は昔ながらの「階級」でもある。
- ヨーロッパを襲う3つの嵐は「1)コロナウィルスによる身体的影響(感染、隔離、死など)」「2)コロナウィルス拡大による経済的影響」「3)シリアで起きている暴力の嵐」であり、ロシアとトルコは石油だけではなく、難民の流れもコントロールしてヨーロッパに外圧を加えられるだろう。
- 今現在は難民はコロナウィルスと結びついて迫害を受けていないが、万が一それらが結びついたら「科学的医療的な理由」で難民排斥を正当化できてしまう。
- コロナ後の通常はコロナ前の通常とは違うだろう。ハグや握手をする余裕があるのは自己隔離できる特権階級のみで、一般庶民は「仕事に戻り」、ウィルスと生きていくことになる。
- 「個人の責任」を重視するあまり、経済や社会制度をどう変えるべきかを見えにくくするならば、それはイデオロギーとして機能している。
- マスクや人工呼吸器、ワクチンなどの分配、隔離施設の確保、失業者への手当てなどは市場メカニズムから離れて行う必要がある。これがジジェクのいう「共産主義」の出番。
個人的に面白かったのが「新自由主義では自分の中で階層闘争はじまっちゃってる人もいる」という部分。言われてみれば確かにね、と思う。それから「難民とコロナが結びついたら〜」部分に関しては、当初のアジア人への暴力事件など考えると既に危ない兆候があるのかもしれない。まぁ、アジア人に対しては、「コロナをうつされるかもしれない恐怖」から「コロナを発生させたこと(結果自分たちの生活が変わってしまったこと)に対する苛立ち」に暴力の理由が移行しているかもしれないが。
何れにしても、コロナで人的交流は減っているし、その分フェイクニュースなどに晒されやすくなるし、経済的影響はデカイし、新しい生活習慣は馴染めないし…でダークサイドに落ちやすい状況ではあることは間違いないでしょう。そうならないために、なにかわかりやすい処方があればいいのだけど、そんなものはないのがまた辛いところですね。
2020-10-10, 10:22
リモートワークというのは家でなくてもネットとPCがあり、ちゃんとした環境であればどこでも仕事出来るということだ、と気がついたのはお盆の時だった。要は実家で仕事すればいいじゃん、ということである。その応用で「妹宅で仕事すればいいじゃん」と言われたので、0歳児の赤子のいる、しかも運悪く旦那さんが出張中でワンオペ(しかもしかも、あろうことか引っ越し翌日)の妹のうちへヘルプしに行ってきた。もちろん自分の仕事もしつつ、である。当たり前だが妹の家は私の家ではない。窓の外の車の音や天窓に打ち付ける雨の音以外はほぼ無音に近い環境で日々過ごしているところに、自分以外の人間が2人もいる、テレビもついている、風呂の温度は赤子仕様でぬるめだし 、気ままに本読めないし、てか、本1冊しか持ってきてないからないし、夜泣きで起きるし、ノートパソコンのモニターは小さいし…まぁそういう細かいのが積み重なって疲れてしまった。実家も似たようなものなのに、こうはならないんだから、やっぱり実家は実家であって、妹の家は「他人の家」なんだろうな。まぁ、仕事はきっちりやったし、段ボールはほぼ片付けたし、赤子の面倒もみたのだから、及第点はもらえたはず。大体私は赤子に好かれるタチなのだ。姉妹だから声が似ているといった理由もあるだろうが、単に私が子供っぽいだけなのかもしれない。家族には「薄汚れた大人にはわからない魅力があるのよ!」と強がってみたが。
で、肝心の赤子。小さい子を見ると「この子は自分を自分として認識しているのだろうか?私を他人として認識しているのだろうか?」と考えてしまう。「私を他人として認識する」というのはすなわち、「私を自分でないと認識する」ことだから、結局は「自分(とそれ以外)という認識がある」かないか、なのだが。鏡にうつったモノが自分と認識しているかどうかという動物実験の結果をたまに見かけるが、鏡にうつるのはあくまで己の肉体で、その肉体の中(?)に潜む(?)精神、意識、魂。そう呼ばれるものがいつ認識される(わかってもらえる)のだろう?間違いなくそれらはその子の中にすでにあるはずなのだが。もしかして、これは年齢に関係なく、子供でもわかってるならわかっているし、わからないまま死ぬ大人もいるということなのかしら?他者との関わりを通じて徐々に・・・なら、現在の一般的なケースでは生まれた瞬間から他者まみれだし、まさか学校みたいに年齢で決まるもんでもあるまい。せめて自分の場合はどうだったかを思い出そうとするのだが、全く思い出せないのはもどかしい限り。
ついでに。前にも書いたが、こうやって小さい子の面倒を見ると「私には母親は無理だな」と思う。「産めば意識が変わるよ!」という人がいるが、高々「持ち込んだ本は書き込みながら読みたい。書き込みながら読む場合は風呂で読めない。故に風呂の中で読む本がない。(風呂本は重いからって持ってこなかっただけ。)」ってことで、うーうー言う人間が365日人の面倒をみれると思いますか?自分の人生の面倒見るのにもこの調子なのに、人ひとり、育てる勇気なんぞ持てません…

久しぶりに池田晶子読んで、「これこれ!これーーー!」ってなったのでこんなことをつらつら書いてみた。やっぱりたまには読まないと、腐るわ。色々と。
2020-10-03, 12:53
「茶人たちの日本文化史」を毎晩、前日の寝落ち寸前〜当日読んだ分をノートにまとめる作業をやってみた。これはこれで楽しい。ただ、「どのようにまとめればスッキリするか?」を試行錯誤しているので、なんとも取り留めのない状態になってしまい反省。ノートの2ページ目に突入した時は、余白が多めになりました…こうすれば次回似たような話題を読んだ時に追加で(色でも変えて)書き込みできるはず!
なんだが、次に読んだ本がなんとこれ↓。

本の余白に書く「マルジナリア」についての本。ちゃんと沢山書き込めるように、余白多めに製本されているし、内容が滅法面白い。夏目漱石は「マルジナリア狂人」らしいが、流石ツッコミも冴えていて「馬鹿ヲ云エ」「ナンダコノ愚論ハ」「コンナ長イ独言ヲ言フ者ガアル者カ」「ソーデスカ」などなど、容赦がない。私も本に書き込みはするタイプで、松岡正剛リスペクトのパイロットVコーンを本と持ち歩くようにしている。(なお、Vコーンは肝心の松岡正剛の「千夜千冊エディション(文庫)」だと滲むのだが、なんとかなりませんかね。角川ソフィア文庫様。)とは言え、線を引くことは多いが、余白に文字を書き込むことはあまりないので、まずは「ソーデスカ」レベルのツッコミからマスターしていきたい。…って、あれ?これノートいらなくね。まぁ、母上や図書館で借りる本を読むことも多いから、いいか…因みにこの本を読んで、「世の中にはグレーのマーカーがある」ということを知った。明日買ってみよ。
あと、その前に読んだ「へんちくりん江戸挿絵本」って本の「おわりに」が中々考えさせられるので引用しておきます。長い引用ですみません。
この時代には、出版と書物が普及したことによって、身分、職分よりいも知識や教養の程度による、ある意味で新たな階層的再編成が起こりはじめ、学芸、文芸その他の文化的活動とのかかわりの程度が出自で決まってしまうような状況ではなくなりつつあったのです。
P233
この時期に新たに書籍に触れるようになった読者たちは、こういうふざけた作品にも、娯楽だけではなく役に立つ知識や情報、ためになる教訓や教養を求めたようです。そんな読者たちを前に、それまでにあった自由な発想のうえに教訓が添えられる様をみてきました。(中略)
それでも、その大衆化の時代において、既存の知の形式を基盤としてそれと戯れるような読み物を求める層の裾野が広がったことの意義は見逃せないでしょう。当時の大衆的読者の需要を単純化していえば「おもしろくてためになる」ということになりますが、そのおもしろさを構成する多様な要素のうちに、既存の知識、知の形式を土台とした戯れが含まれたことで、その読者たちの知や学問への憧憬と意欲が喚起される面もあったことでしょう。
P234-235
自由な発想でさまざまな知識やその形式に戯れかかることがさかんに行われてきたにもかかわらず、十九世紀を迎える頃には、自国の神話や歴史という自分たちのアイデンティティにかかわる記述が大衆化のなかで絶対化されていく傾向を確認しました。いっぽうその外側の世界については、真偽を問わず怪しげな情報が積極的に再生産され、受容される状況が生まれたのもみてきました。(中略)
こと自国の歴史の問題になると、遊びが遊びでなくなり、笑いとして理解されなくなるということがすでに江戸時代に起こっていたということを指摘しておきましょう。
P236
…ううむ、どっかで聞いたことのある話だな!途中から教訓が追加されるのは大津絵の流れでもあったし。
2020-09-29, 22:13
昔の私はエラかった…と遠い目をしてしまうほどに、最近の私は物覚えが悪い。多分、本はよく読んでいる方である。分野はバラバラとは言え、長いスパンで考えるならばマイブームは何度か周回しているし、1分野1冊みたいな読み方もしていないので、「覚えられないのは何かがおかしい」と薄々感じている。例えば、すんごい集中して読んだ二・二六事件の青年将校たちについて(影が薄いのは除いて)ぼんやり覚えている。…が、これが「統制派vs皇道派、そして昭和史における影響」ってなると、あ〜うぅ〜〜と頭を抱えて「永田、東條、荒木、真崎…ん?石原の立ち位置ってなんだっけ?統制派が強くなって…なって…で?具体的にどの出来事につながっていくんだ?」となる。ついでに言えば、バーデン・バーデンって単語は語呂が良いので覚えているが、そこにいた残り2名がさっぱり出てこないのだ。昭和史については20冊は余裕で読んでいるはずなのにっ!!と、歯軋りしても、どうやっても岡村寧次と小畑敏四郎の名前は出てこない。
とまあぁこんな感じで、いかに自分の頭の中身がイケていないか?は自覚済みなので、いい加減次のステップに進まなければ、人としてダメだろう。なぜイケていないのか?そこを突き詰めるに「(だいぶ怪しいが)点では覚えているのだから、線と面をつなげればいい」ということに思い至った。と言うより、読むスピードがそこそこ早い分、目についた点を線や面にしないまま、垂れ流して次に進むから身につかないのだ。となると、点を拾って線にしていく他あるまい。幸い、いまだ大絶賛リモートワーク中なので定時後の時間は空いている。そこで前日寝落ち直前〜当日読んだ本の内容をメモしていけば、少しは頭に残るのではないか?
思えば大学時代の学習も、「予習でテキストを読む→授業でノートにまとめる→試験勉強のために読む→試験で記述する」という「読む→書く」のサイクルだった。だから多分、「第一次世界大戦と第二次世界大戦は一つの戦争とみなすべきかどうか?」とか「テロを実行するならば、大量破壊兵器のどれが一番効率的か?」とかそういう試験の内容をいまだにちゃんと覚えているのだ。このデジタルのご時世に手書きもなんだかなとは思うのだが、小学校5年生(つまり25年近く前)に手書き丸写ししたnewtonのイオ・トーラスについてはガッツリ覚えているのだから、私には手書きが向いている。あと、囲ったり線を引いたりするのはデジタルだとやりにくい。
…と言うことで、読書メモやってみます!という宣言でした。6年前になんか偉そうなこと言ってたけど↓、これもう無理。だって、覚えられないんだもん。
2020-09-12, 21:03
…と思うことが最近多いのですが、どうでしょう。うちの会社はマネージャー職と専門職に分かれてて、それぞれに等級があるのですが、マネージャー職に進むということは専門職とは違い、「部下を育てる」ってのも仕事のうちに入ってくるわけです。そっちの道に進むということは、「育てる」をしなきゃダメなはずなのです。なのに、しないやつがいる。その上、人が手塩にかけて育てた部下を掠め取ろうとする。もし異動先が部下のキャリアにとってチャンスになるんだったら、そりゃ快く送り出しますよ。でも残念。あなたのところは、そうじゃない。本当にどんだけツラの皮が厚いんだ…
…と以上、毒吐きでした。でも本当、マネージャーと呼ばれる人たちは、自分の部下を大事に育てた方がいいよ。そして間違っても(自分は部下を大事にしていないのに)人様が大事に育てている部下を欲しがっちゃダメだよ。運悪く&抵抗虚しく大事な部下が異動し、潰された日には…毒を仕込まれる覚悟を持つんですな。
2020-09-10, 08:39
今回も簡潔に。

半藤一利の昭和史シリーズ完結篇!とのことで、読んでみた。実は「昭和史(戦前)」と「昭和史B面」は読んでいるのだが、「昭和史(戦後)」はまだ読んでいない。いつか読もう…というのは、さておき。当たり前といえば当たり前なのだが、意識しないと中々できないことに「歴史は横で眺めてみないとわからない」ということがある。日本国内に限っても、政治的な出来事と文化的な出来事、これは結構真面目に考えないと、頭の中で一つに融合しない。他国と自国の歴史も、出来事としてはそれぞれ把握できても、「どのようにそれがつながっているのか?」というのは、よっぽどメジャーなものでもない限り意識されないのではないか?(もしかして、ちゃんと意識できていないの私だけ?)そういう意味で、この本は「横の繋がり」を意識するにもってこい。ちょいちょい挟まれる現在(安倍政権)への言及も、縦の糸のなんというか、色合いのパターンを意識できる。
個人的にはドイツが対ソ戦略の一環で日本を取り込もうとする中で派遣されたヒトラー・ユーゲントが来日。元々年齢層も10代後半と高めでその分訓練も行き届いている彼らのおかげで、小国民は軍隊式で鍛えられることになり、散々迷惑した、という本音が面白かった。

母の本棚から拝借。より短く軽めである「江戸の備忘録」と続けて読んで面白かったのだが、「殿様の通信簿」のほうは読んでいて、違和感が残った。中身にではない。文体にである。どこかで読んだことのある、この癖のある文体。思いあたったのは
ー司馬遼太郎
であった。
2020-09-03, 21:00

夏休みの宿題として読み始めたのだが、これが面白いのなんの。なんでか未だ日本語訳が出ていないので、原著で読んだのだが、いつもの「よくわからん単語は飛ばし読み、何度も出てくるよくわからん単語は調べる」方式で、構文自体もそう難しくないし、比較的短時間で一気に読めた。まぁ、モルモン教に関するざっくりとした知識や、アメリカ西部、アイダホとかユタとかアリゾナの田舎の雰囲気がわかっていると、より理解しやすいかも?とは思う。私的に面白かったポイントを今回はまとめます。
まず、タラの家族の話。両親と上からトニー、ショーン、タイラー、ルーク、オードリー、リチャード、そしてタラの9人家族。両親の学歴について書いてあったか記憶がないけれども 、上の3人だけが生まれた時に出生証明書がきちんと出され、短いながらも学校に通ったことがある状態で、下の4人は父親が政府を信用しなくなってしまった後に生まれたため、証明書もなければ通学経験もなかった。この「上3人がちょっとでも学校に通った」っていう点が、地味にタラの人生に影響があったのだろうと思う。というのも3人のうちタイラーが勉強を続けて大学に進んだから。多分、彼が勉強することを楽しく感じ、続けたいと思わなければ、タラに大学に行くべきだと誘うこともなかったのだ。
では、父親はいつから「こんな」になったのか。2番目の子供であるショーンが生まれた時に、ハーバリストを助産婦として雇って家で産んだらしいが、その次のタイラーは病院で生まれている。4人目のルークからが徹底して反政府的になっているので、この本の最初に触れられていた1992年に一家が住んでいるのと同じアイダホ州で起きたRuby Ridge事件自体は父親がサバイバリストになった直接の原因ではなく、単に父親の思想を強化する材料になっただけなのだろう。(ちなみにタラ本人は1986年生まれ。)つまりこれといった特定の原因はなく、後年タラが推測するように双極性障害の影響や、自分を含めた家族が数々の怪我をハーブとオイル(エッセンシャルオイル)だけで文字通りサバイブしたのが、彼のサバイバリストとしての思想をどんどん強化していった。元々は自立的であった母親のハーブオイル精製などのビジネスも、有名になるにつれ父親が吸収していったし、最後には地域で有力な雇用主になっており、大学教育を受けなかった4人の子供も親に養われている状態。母親も含めて皆彼の影響下に入ってしまい、そこから出ようとしたものは徹底的に痛め付けられるし、心理的傷を残す…でも自分の思想は絶対的に正しいと信じて、1ミリも疑っていない。うーん、見事な毒親!
ちなみにグーグルマップでBuck’s Peak, Idahoで検索すると、彼女の生家がわかる。本の中でも「昔は5つのベッドルームしかなかったのに今は少なくとも40はありそう!」 と言っていたほどの広さで、駐車場にとまっている車、アメリカンサイズだからそこそこ大きいはずだが、それと見比べると確かに相当大きな家だ…ちなみに、グーグルマップからは母親(父親)のやっているエッセンシャルオイルのウェブページも確認できる。見たところ、どうも「Educated」に反論?して「Educating」という自社出版本を出すらしい。売りは「ホームスクーリングで3人の子供を博士号取得まで育てた!」「コロナで学校に行けない時代に是非!」とのこと。ファンディングもしているが結果がちょっと寂しい感じである。
話を戻すと、親の思想の影響は大学に行っても続く。着る服や歯痛の治療、政府からの経済的援助を受ける受けないなど。周りの人が気をかけたことももちろんだが、タラは大学で習ったことをきっかけに世界を確実に広げていった。自分の父親が双極性障害ではないか?と気がつき、それによってより客観的に父親と家族を眺められるようになったのは心理学のクラスでだったし、「アイダホ州のRuby Ridge事件」という単語を同じ心理学のクラスで知り、それについて検索することで、父親から聞かされていたランディ・ウェーバーの話が事実とは全く違うもの、つまり「ホームスクール」が問題でウェーバー一家は射殺されたのではなかったことを知った。父親が言っていることは真実ではない、という知見を得たのだ。
初年度の西洋文明美術のクラスについてのエピソードがまた興味深い。そもそも、本来は1年生向けのクラスを取るべきだったが、このクラスは3年生向け。しかも初回の授業で「ホロコーストって何ですか?」って聞いてしまい、教室を氷点下状態にするわ、教科書の読み方を知らず、ただ絵を眺めていただけだったり、アメリカの大学で必ずお目にかかる「blue book(記述式用の10ページくらいのノート。本当に表紙は青い。というかあれは水色か?)」を試験で準備しなかったり、カラヴァッジョの綴りを間違えたり。ホロコーストを知らなかったり、教科書の読むべき場所がわからないというのは、流石にないと思うが、他は留学生あるあるである。となると、もう彼女は異邦人ではないか。ホロコーストを知っている分、留学生の方がまだ一般的なアメリカ人学生に近い。同じアメリカ、同じモルモン教徒でもこの分断である。言わんや…
その後のタラが学問を極めつつも、実家に戻ってしまい、そこで恐れ、傷つき、最終的に家族と決別するが、せめて母親にでも会いたいと思っても拒絶され…という部分もなかなか感動的というかハードムービングな話なのだが、どうもうまく言葉で言い表せないので、今回は割愛させてもらいます。
何れにしても教科書の読み方を知らない状態から奨学金をゲットできるまで成績を爆上げしているのは、本人の生まれ持った知性もあるだろうが、紛れもなくそれに加えて努力の結果である。この本を読んでいて、アメリカの大学に通いたくなってきてしまった。分断もあるし、争いも絶えない。しかし、(絶対ではないものの)努力が認められやすいのもアメリカという国だと私は思う。
■おまけ■
大体のストーリーは以下のページに纏まっているので、そちらをご確認ください。
こちらも↓
「毒親」から離れた彼女には「教育」という光があった(山崎繭加)
2020-08-28, 22:58
あまりに放置しすぎてすみません。家にこもって仕事をしていると、どうも人としての間口が狭くなるような気がしなくもない。やはり人間刺激が必要なのかも。…と言うことで、長文を書くネタも気力もないので、最近読んだ本についてパパッと数行でまとめたいと思います。思うに、1冊読むたびに手帳に3行感想文を書くルールにしていたころ読んだ本の方が、記憶の残り方が多少マシだったのではないか?なので、やっぱり読んだ本については短くてもいいから何か書こうと思います。書かない本(小説とか)もあるけどね。

収録されている「藤原行成をめぐって」というエッセーを読みたいがために、ついでに残り全部も読んだ。清少納言と行成のペアだからこそ輝いてた、ってのは全面同意です。自伝は以前に読んだことがあるような…「両性具有の美」に関しては「男の世界に憧れる女」という雰囲気がどうも苦手に感じた。

勢いやよし。大化改新がどういう成り行きだったかを覚えていないとだいぶ辛い。書名になっている話以外は奈良の地理感がないと、ちと辛い。生駒山はもっと下の方にあると思ったら全然違ったし…奈良は小学生の頃の修学旅行と家族旅行(というより家族で行った修学旅行)でしか行ったことがない。奈良ホテルそばの串カツ屋でお腹が破裂するほど食べたっけ…改めて行きたい。


新冊の方を読みたくて、ついでに前作も読んでみた。感想は「どうも頭に入ってこない…」に尽きる。Amazonの感想を見る限り、どちらの本についても訳に文句を言ってる人がいるので、理解がいまいちなのは訳文の問題なのだろうか。一言でまとめるならば、それぞれ「元々人間の脳は読書をするようにはできておらず、成長する過程で読書の仕方を学び、読書脳を構築している」「デジタルだけで読むのは識字能力への影響が懸念されるので、紙の読書をベースにデジタルの読書にも慣れるべし」ということかしら。とりあえず、2冊連続で読むと「子供の頃に大人に読み聞かせしてもらった時間が結構大事」ってことだけはよくわかった。甥っ子姪っ子にも沢山読んであげようと思う。後、最初の方の本を読む限り、英語って結構難しい言語なんだな、と。イレギュラーが多すぎるんですよ…

最初風呂の中で読んでいたのだが、半分くらいで文体にギブアップしてしまった。語尾に「〜なんだ」「〜やね」というのがちょいちょい出てくるのがどうも許せなかった。お風呂の中だと静かに本だけに向き合って読むことになるので、音楽聴きながら読む通勤本に変更して、昨日一気に残りを読み切りました。ネットだと気にならないのに、紙になっていると文体が気になるのは、これ、もしかして「紙の読書」と「ネットの読書」の違いなのかしら?あと、本の構成も結構謎。第3章から「む、期待とちょっと違った」と思う人が多いのではないかと思う。
2020-07-13, 21:57
久々のブログ記事なのに、我ながら意味不明なタイトルだと思うのだが、もうタイトルで全てを言い表してしまった。私は、アンチ・丁寧な暮らしニストなのである。「丁寧な暮らしニスト」とはなんぞや?と思う人がいるかもしれない。もちろん私の造語(のはず)である。「天然生活」に出てきそうな、ヘアバンドしてたり、前髪パッツンだったり、とにかくそんな感じの髪型で、化粧は控えめ、服は山ガールというよりスモックみたいな柄なし地味色のチュニック みたいなのを着ている。そしてそんな彼女らの台所はザルとかすりこぎとかがぶら下がっているようなモダンというより昭和臭漂う感じ。とにかく全部が私の趣味じゃない!まぁ、向こうからすると「白Tとジーンズにスニーカー、レイバンのサングラスにポニーテール?プッ、アラフォーのくせに何アメリカン気取ってんの?てかタモリ?」だろうし、私こそがダサいのかもしれないが。
で。そんなアンチ・丁寧な暮らしニストな私なんだが、いわゆる「丁寧な暮らし」そのものはそんなに嫌いではないのだ。梅しごともするし 、常備菜もたまーに作ったりする。 まぁ、味噌や梅干し、塩麹には手を出していないし、その程度と言われればその程度ではあるのだが。が、なぜ丁寧な暮らしニストは好きじゃないのに、丁寧な暮らしそのものはそんなに拒否感がないのか、我ながら線引きが謎なのだ。丁寧な暮らしニストに透けて見える(気がする)信仰に近い自己満足感が嫌いなのだろうか?制服みたいに似かよったファッションなのが嫌いなのか?台所に関しても、ざるがぶら下がっていること自体はOKなのだ。実際いろいろなものがぶら下がっているツレヅレハナコ邸はむしろ羨ましく思う。ただ、彼女らの台所は何かが違う。なんだろう、本や雑誌になっているから余計にそう見えるのかもしれないが、目的が「丁寧な暮らし」そのものにあるようにみえるから嫌なのかな?この気持ち、だれかビシッと一言で表現してくれないかしら・・・
ちなみに今はふきんの漂白剤入れたつけおき⇒そのまま煮沸するための野田琺瑯のストッカーの購入を真剣に考えている。実は単なる同族嫌悪で、私も3年後にはスモック族だったりして。30年後はこんな感じ?↓

(このご時世、あんまり賢くない投稿かもしれない。今の私にとっては苦手だなーと思うのだが、10年後はわからないしね。)