Archive for the ‘世の中に対する突っ込み’ Category.

大統領は見た目も大事!?

マケインのお膝元アリゾナで過ごした高校留学は2000年の大統領選とともに終わり、大学留学も2008年オバマ大統領が選ばれる直前に帰国と、私のアメリカ生活の思い出はジョージ・W・ブッシュ大統領とともにある。国際関係論やアメリカ外交について勉強していたし、その頃はアフガン戦争やイラク戦争など、従来と違う戦争のやり方についてが結構ホットなトピックだったので、勢い政策決定者の思想や来歴を調べる機会が多かった。というか、The Vulcans(ブッシュの外交アドバイザー集団)についての本が課題図書で、エキストラクレジットのために読まされた。まぁ、そんなこんなでいろいろ調べているうちに、気が付いたことがある。「アメリカの大統領ってそこそこハンサムじゃない?」

子ブッシュあたりは愛嬌のある顔をしているが、若い頃はそれなりにイケる顔である。大統領じゃないけれど、ラムちゃん(ラムズフェルト)なんて超イケメンだ。クリントンやトランプは正直よくわからないが、というか単に私のタイプではないだけだろうが、ちょっと時代を遡ると、レーガンもルーズベルトもウィルソンも、もれなくイケメンなのだ。さてはアメリカ人は顔で大統領を選んでいるのか・・・?と訝ったりもしたが、よく考えれば少しでも美しい顔の方が印象が良いのは当たり前。人間は美しいものが好きなのだ。30過ぎれば生き方も多少は顔に出てくる。顔は意外といろんなものを表しているのである。

というわけで、ちょっと前にあった民主党大統領選候補者のディベートについて。

民主党大統領候補のディベートに見るルックス、話し方、ボディ・ランゲージ、イメージの損得

外国語(スペイン語)が話せるかどうかというのが、かつてないほどに重要になってきているという点や、話し方、そしてもちろん政策など見かけ以外のポイントも指摘はされているが、やはり重要なのは見た目だというのがよくわかる。例えば、「女性は男性と違ってスーツの色で変化をつけれる=印象に残りやすい」、「顔の表情が地味(で声にパワーがない)=存在感がない」など。何より辛辣なのがベト・オルークに対してで、

日頃から身振り手振りが不必要に多く、メッセージ伝達の妨げになると指摘される彼は、カストロとのやり取りで答弁力の無さを露呈。 1回目のディベートのアンケート調査で最下位の評価となっており、現在はそのダメージ・コントロールに追われている状況。 彼の場合、政治家の割には目力が無く、顔の下半分の表情がいつも弛んでいるので、 特に報道写真で ロバのようなルーザー・フェイスに写ることもマイナス要因なのだった。

と、けっちょんけちょんに「顔がダメ」と言われいてる始末。確かに実際の写真をみても、しゃべっている動画を適当に止めても「た、確かに…」と認めざるをえない。

「目力・・・ない気がする。下半分・・・緩んでる気がする。」

結局、人は「人を見かけで判断してはいけない」などと一応タテマエを言うものの、見かけで判断している生き物なのだ。見かけを吹き飛ばせるほどの何か(性格の良さ、頭の良さなど)を持っていない限り、見かけでなんとなく仕分けされてしまう。逆に見た目が凡庸で印象に残らないと、多少いいことを言っても忘れられてしまう。エネルギッシュさというのも目力や姿勢、表情などに現れるわけだから、顔以外の見た目も重要になる。見た目美人とはなんとまぁ、ハードルの高いことよ。アメリカ大統領達は(特にテレビ時代の大統領達は)、かくも大変な戦いを勝ち抜いてきたわけで、そりゃイメージアドバイザーを雇って訓練するわけですね。2020年の選挙、非常に楽しみです。ちなみに「見た目がどんなに良くてもダメなもんはダメ」の良い例は前代のメキシコ大統領です。

アメリカのメディアだって日本と似たようなものかもしれないね。

平日はAnderson Cooperのポッドキャストを聴きながら朝の支度をしている。CNNなので基本スタンスはアンチトランプなんだろうが、これがまぁ毎朝毎朝(いや、向こうの時間では朝じゃないのだが)、コメンテイター同士で大論争。大論争があるということは、色んな意見の人が出演しているということで、そりゃ結構なんだが、何だかだいぶ激しい。しかも相手に被せてしゃべるものだから、ネイティブじゃない私にはもうお手上げである。「毎朝毎朝(しつこいがアメリカでは朝じゃない)、元気なことだな」と思いながら化粧をしている。

さて、そんなアメリカのトレンドニュースは政府のシャットダウンだが、その前からずーっとトランプ大統領の動静・政策・その他諸々がトップニュースの定番である。定番というより不動。それ以外のニュースが先に来たことなど、ここ数ヶ月ないのでは? [1]ざっと過去履歴を見たら10月にはトルコで殺害されたサウジアラビアのジャーナーリストの件がトップニュースになっていた。これって日本のモリカケと一緒なんだろうな、アメリカでも似たようなものだな、と感じる。まぁ、実はテレビを持っていないので、肝心のモリカケについての日本のテレビの状況を知らないんだけど。 [2]モリカケの場合、テレビというより議会だったのかもしれない。

とはいえ、40分の番組中ずーっとトランプの政策についてとは、いくらなんでも長すぎやしないか?国際問題とか、もう少し他のニュースはないのだろうか? [3] … Continue readingそうやって「アメリカのことだけを気にしていること」こそが、CNNの最大の敵、トランプ大統領と全く同じ思考と言えないだろうか?そんなことを考えていたら、数日前の放送では、最後の4分でシリアの情勢について流していた。リアルな銃撃音が聞こえてきて、びっくりした。まさしく戦争映画できく音だった。これは日本のテレビやラジオではあまりききませんね。こういうところは、お国柄がやっぱり違うのかもしれないな。

References

References
1 ざっと過去履歴を見たら10月にはトルコで殺害されたサウジアラビアのジャーナーリストの件がトップニュースになっていた。
2 モリカケの場合、テレビというより議会だったのかもしれない。
3 一応予防線を張っておくと、朝、番組全てを聞いているわけではない。ので、実は後ろの方で、他のニュースもやっていたのかもしれない。でも大体半分ちょいは毎朝聞いている。

高層マンションが苦手

今日、会社から帰宅して我が家の目の前の部屋に長らく住んでいた中年夫婦が引っ越してしまったことがわかった。薄々そんな気はしていたのだが、ドアノブに水道か電気かの案内がぶら下がっているから間違いない。不動産情報に載っているほど、繁華街に近いわけでもなく、その隣駅からも歩いて15分強。慣れれば中々いい場所なんだが、やはり駅から遠いのがネックなのか、部屋の回転は速い気がする。そんな中で同じ階で私より長く住んでいた夫婦の引っ越しなので、些か驚いた。居心地が良くて住んでいたのだろうに、いったい何があったのか・・・今日から私がこの階で最長老か・・・というわけで、陸自の日報問題とか、大阪かどっかで文書を道路にぶちまけた話ではなく、今日はマンションの話。papersについては昨日書いたしね。

http://www.cubeny.com/home_18jrod.htm

NYのこちらのビル、まぁそこそこ有名ということなんだけど、どうもあこがれない。というより、ぶっちゃけ住みたくない。賃料が世界一高いとも言われるニューヨークの、今一番ホットなレジデンスビルだけど、どうもね。ニューヨークに限らず、高層マンションの広告を見ては常々思うのが、「そんなに窓が大きいと外から丸見えでは」「ベランダがないから蘭に風を当てられない」「洗濯物が干せない」「エレベーター混んでそう」「地震があったら登れなさそう」

まぁ、洗濯物については文化的にアメリカでは不要。蘭は個人的なものだから、9割の人には関係ないとして、他について許容できる人がいるのがすごい。地震はニューヨークではさておき、この日本では死活問題だし、実際地震に限らず、イギリスだったか火災で亡くなった事故もあったではないか。というか、ニューヨークの高層ビルといえば、真っ先に思い出すのが、CNNの生中継で見てしまったツインタワーの崩壊で、あのビルになんとなく似ている高層マンションが人気だなんて、平和になったものだ・・・と本当に思う。

ところで、昔雑誌で読んだのだが、高層マンション住まいだと感覚が狂うとか。文字通り「人がゴミのように見える」ということで、高層階お育ちだと構築される世界の見え方が、一戸建てだとか、せいぜい10階程度で育った子供とは違うらしい。大げさな気もするがわからんでもない。誰かその辺を社会学的に研究してまとめた人はいないのだろうか?非常に興味深い。だいたい、高層マンションのなかで、眺望以外メリットがなさそうな上階の方が人気で、なおかつ高層マンション内のヒエラルキーでも上に立つ、というのも意味がわからない。上の方がいいって、そりゃ単に煙となんとかはなんとやら・・・これ以上は角が立つので言わないが。

ニューヨークもだが、東京のマンションも、どうも外資(中華系)の投資目的になっている部分もあるようで、オリンピック明けには価格が下がるのでは?と言われている。個人的には、その不動産価格の下落に、武蔵野の低層マンションも引きずられたりしないかな、と期待をしている。実は不動産情報見るの大好きだしね。 [1]宅建士の免許も持ってたりする。とりあえず、広いキッチンが欲しい。

 

References

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1 宅建士の免許も持ってたりする。

「社会で役に立つか否か」と言っている時点でどうなの?という話

「漢文は社会で役に立たない」と切り捨てる“意識高い系”の勝ち組へ あえて「ビジネスシーンで役立つ漢文」を考えてみた

漢文が社会で役に立つか否か。残念ながらというか幸いなことにというか、私の仕事は日本語のみでほぼ成り立っているため、今のところ私の「ビジネスシーンでは役に立ってはいない」。が、これは単に「漢文が役に立つような土俵に私が立てていないから」とも言える。上のリンクの最後の例にもあったが、中国人相手のビジネスならば、李白や杜甫の詩を習ったということを先方に伝えるだけで、勝手に親近感を持ってもらえるかもしれない。私だって、同じくらいの能力や重要度の外国人が目の前に二人て、片方が「清少納言のエッセーを英語で読んだ」と言ったならば、その人の話に食いつくだろう。相手の文化に対する知識を持っていることは、人間関係においてかなり有利になることは間違いない。単に漢文の知識を活かせそうな仕事についていないのが、問題なのだ。なので、自分の今の立ち位置だけで「役に立つか否か」を判断するというのは、翻って「役に立っているという実感も持てない己の立場の低さの証」と言える。

それに、中国語の勉強と違って、学校で習う漢文は完全に教養である。漢文を読めても中国語が喋れたりするわけではない。が、こういう教養こそが必要だと思うんだよね。漢詩の字面を眺めてみたり、孔子の教えを学んでみたり・・・面白いと思うんだけど。持っている(でも普段はなかなか見えない)教養の深さはより良い人生に必要だし、そういう人と一緒にいたいと思うのだが・・・そう思わない人もいるんだろう。

大体、「役に立つ」「役に立たない」という線で考えるならば、人間個人の存在など最も社会にとって役に立たない。外資系コンサル?エリートビジネスマン?でも、そんな人間も「急にいなくなったら」会社はしばらく困るだろうが、最初からいなければ、いないものとして社会はきっと回るだろう。急にいなくなったとしても、どこかでまた辻褄があって、なんとかなるものなのだ。

というわけで、学問に対して「こんなの意味あるのか?」というのは、単に己の小ささと、自己評価の高さを公言するようなものなんだから、やめておいたほうがいい。せっかく未知のものに出会ったのだから、謙虚に勉強したほうが、最終的によっぽど自分の人生に役立つだろう。

 

徒然日記

例の「スリーパー」絡みの炎上について、ひとつ書いてみようかと思ってたんだけど、完全にタイミングを逃してしまった。お陰様で「Twitter上であのひと、美人じゃないだろと喚いて終わる」という私の人間性の危機的状況なのだが、念のため、もう一度説明しておく。私は「美人って言われるし、ま、実際わたしゃ美人ですけど、何か?という顔をした本当の美人(池田晶子)」や「昔からブスブス言われてたから知ってるわよ。だから努力してんじゃない?え?今の私、美人?お世辞でもアリガトー!!(林真理子)」みたいなタイプは嫌いじゃない。中途半端な顔で「え?私美人?うれしい・・・でも、美人って言われて喜ぶとブスっぽいからスルーしよ(でも行動で気にしてるのがなんとなく透けてみえる)」ってタイプが嫌いなのだ。高校の時にやらされた進路適正テストのマークシートで「どちらともいえない」がひとつもなかった私です。中途半端が嫌いなだけらしい。最後に、自分の顔も出さずに卑怯ではないかと考える方もいらっしゃると思うので、念のため言っておくと、私は林真理子型である。小学生高学年の頃、私を見て母親は当時世間を賑わした某カルトの教祖みたいだとのたもうたのだから・・・まだ未婚ですが、結婚式のスライドショーは絶対にやらないと固く心に誓っております。

話は変わって、最近読んでる本の話。昭和日本史ブームは継続中なのだが、先の連休に京都に行ってふと「私は懐石料理についてしらないなぁ」と気がついた。向付、これは単語として知っているが、イコールお刺身である事は霧の向こうにある。こんな感じで、懐石料理を作ろうとは思わないが、知っておきたいと思ったので、図書館で一式借りてみた。 茶道についても、昔習っていたのでそれなりの知識はあるが、これもまた霧の向こう側に行きつつある。懐石料理は茶事ですもんね!ということで、最初に読んだのが以下の本だったのだが・・・

正直、私の肌には合わなかった。内容はいいんだけれども、ちょっぴりポエムっぽい文章が苦手。

口に含んだ瞬間、液体のほうからからだの奥へ奥へと入ってくる。口腔、した、喉の輪郭が、みどり色に光り、内側から浮かびあがる。そうして腹。自分の腹はこんなにも広々と、空にむかってひらかれていたのか。まさに原。みどり色に濡れそぼった草の大地だ。

その空から、声が響く。雷のように。釜鳴りのように。

ねろり。

口に含みながら、声を味わう。薄闇を味わう。僕の中で緑が笑っている。闇は微光をふくんだひたひたの水となってひろがっていく。もう一度あらためて理解する、生き物のほとんどが実は水でできていることを。

こちらが、お濃茶を飲んだ時について・・・この世にこんなことを考えながらお茶を飲む人がいるのだろうか?もう少し、無心なんじゃなかろうか??ちなみに私が初めてお濃茶を飲んだ時の感想を申し上げると「苦っ!濃っ!」と非常に一般的かつ常識的である。「まだ若い(中学生だった)から問題なかろう」とのお家元の判断もあり、お菓子に釣られてお濃茶1席と薄茶2席のお稽古の「お客役」をやらされたのだが、さすがにその晩は寝つきが悪かったことしか覚えていない。

とにかく、全編にわたってニガテーな文章だったのだが、字が大きいのに助けられ、早々に読了。今は和食全般についての本を読んでいる。こちらは「なんとなーく知っている霧の向こうの世界をつなげた」本。平安時代の人がどんなものを食べていたとか、行楽弁当の話とか・・・頭の引き出しの整理にもってこいの内容で、楽しく読んでいる。

この後は、ちょっぴり実践的?に懐石料理の盛り付けの方法についての本やNHKの美の壺シリーズに手を出す予定。とはいえ、繰り返しになるが、懐石料理をつくろうという魂胆は微塵もなく、基本は知識欲。ついでに、最近は日本酒が美味しいと思えるようになってきたので、その肴をパッと作れるようになりたい、その時に集めている豆皿で美しく出したいという野望がある。家でまったり飲むだなんて、贅沢の極みじゃないですか。

 

おじさんと教養

朝電車の中でフッと思ったんだけれども、「リベラルアーツ」とか「ゼネラリスト」とか「教養」とか「教養」とか「教養」とかについて、本出してまで語っているのはだいたいおじさんだよなぁ。しかも、自分のおすすめ本の紹介本の場合(「教養のための50冊」みたいなもの)、結構な確率で「漫画も読んで、幅広い俺」というアピールがあるような。

本当に教養のある人は、そんな風に見せびらかしたりしないと思う次第です。なぜならば自分が世の中を全然わかっていないことを知っているから、人様に自慢げに見せびらかすなんてできないと思うのです。

しかし、女性が語る教養本が少ないのは何故か?男性に比べて謙虚なのか(そんなわけない)、それとも真の教養があるのか(やっぱりそんなわけない)・・・何故なんでしょうね。

 

引き続き食事の話

引き続き、と書いたが、実際のところ前回の話は「食べないこと」についてであった。今回も同じく「食べないこと」についてなのだが、前回の絶食よりは食べている。

さて、ちょっと前に読んで、なんとも違和感を感じたのが、卵を食べるヴィーガンの話。卵を食べるならば、それはすでにヴィーガンではないと思うのだが、いかがだろうか?ヴィーガンは、完全菜食主義者のはず。卵を食べるのであれば、「ヴィーガン」を名乗る資格はなかろうに・・・なぜあくまでヴィーガンという立場に固執するのだろうか?

だいたい、よくよく調べてみると一言ベジタリアン(菜食主義)といっても、ラクト・オボ・ベジタリアンだとかなんだとか、やれ魚はOK、乳製品についてはこういう育ちならばOKなどなど、結構な数の分類があるのだ。自分の食べ物の趣味趣向をカテゴライズして何が楽しいのか。食べたいものを食べ、食べたくないものは食べないではダメなのか?栄養的に足りないのであれば、それはその時。「卵を食べるヴィーガン」なんて、ややこいことを言う必要はない。というか、本来「卵を食べるヴィーガン」なんて人は、存在しないのだ。

結局「ヴィーガン」というなんだかカッコ良さそうな名前とライフスタイルにあやかろうとしている中途半端な精神が、アホみたいに細かい分類を生み出しているに違いない。人間、食べなければ死んでしまう。そんな本能的な部分に格好つける労力を払うならば、格好つけずとも目の前に出されたお肉を感謝して美味しく食べる方がいいと思うんだけどな。他の動物の命を自らの命の糧とするのは、地球上の自然の摂理であるわけで、そこから外れようとすること自体に、なんだか人間のおこがましさを感じてしまうのは私だけだろうか。

とはいえ、宗教によるベジタリアンに対して、別になんとも思わないわけで、結局、私は「卵を食べるヴィーガン」みたいな、カッコウだけっぽいのが嫌いなんだろう。

 

日本人は特別良い民族なのか?

「日本は素晴らしい!」「日本人は道徳心がある!」などなど、心くすぐられる海外の反応を見ていると、日本人が特別立派だと思いこみそうになる。が、果たして本当にそうなのだろうか?

例えば、多くの外国人が日本では、すれ違いざまに財布を落とした人がいたら、盗まず落とした本人に声をかける、追いかけて手渡す人ばかりで、そのまま盗む人が0だったことに感銘を受けていたりする。が、この時、財布を拾った人の中では「良心」と「生きるために必要な金・盗みがばれた時のリスク」を一瞬のうちに秤にかけて、「良心」を取っただけではないのか?つまり、人のお金を盗むほど、生活に困っていないだけであって、超お金に困っている場合はどうかわからないし、幸い、日本では一瞬のうちに良心<金に思考回路がつながってしまうほどに困窮している人が世界と比べて相対的に少ない、というだけだと思う。

他国においても、例えばアメリカのゲーテッドコミュニティーの中で同じことをすれば、日本並みに良い結果が出るだろうし、日本も(あまり想像したくないけど)某世紀末並みに治安が悪化すれば好き放題やる人が出てくるに違いない。

というわけで、「日本人が本質的に、他民族に比べて特別素晴らしい民族」なのではなく、道徳的に立派そうに見えるのは、単に環境・社会と、そのもとになる教育の徹底故である。まぁ、そのような環境や教育をシステムとして回せている日本人はやっぱりすごいじゃない!!と言われたら、なかなか言い返せないんですけどね。

これは完全に想像なのだが、一般的に「日本人は無宗教だから」というこの部分に結構ヒントがあるのかもしれない。つまり、日本人には罪を許し、来世の幸せを確約してくれる全能の神を信じている人は少ない。(仏教もそういう神の存在を約束しているわけではない。まぁ、宗派によって捉え方は違うでしょうが・・・)となると、自分で自分を律しないといけない→あるべき人間=真善美を目指す、みたいな意識がどこかに流れているとか?頼るものがないと、自分が頑張るという心理?どうもうまく言えないな。

いずれにしても、人間の最も根源的な本質であり、それゆえ体現するのが難しい「真善美」、これそのものは、間違いなく国やら民族には関係ないのです。

 

制服でごはんを食べに出て何が悪い

「消防車でうどん店に立ち寄った」 消防団員への指導に「世知辛い世の中」という声相次ぐ

消防団員(消防士ではなく、消防団員)が、次の予定もあるからと消防車に乗り、制服のまま昼食をとったとクレームになり、それが新聞記事にもなったとか。正直、線引きは難しいのだと思う。「説明会から次の場所への移動中」という事情を知らず、「飲食店の外に止まっている消防車」だけを切り取ってみれば、「消防車で乗り付けた」ように捉える人がいるのは当たり前だし、そもそもその説明会とやらに消防車で行く必要が本当にあったかどうかによっても違う。さらに言えば、消防車の必要はなかったけれど、では消防車以外に移動用の公用車なく、公務に自家用車を出すのがあるべき姿なのか?日曜日に朝から説明会に参加しているのに・・・エトセトラ、エトセトラ。結局ものすごく詳細まで知らずして、「是か非か」なんてわからないものなのだ。

と、車の使用 [1]特に消防車だなんて高価で特殊で、公道を走っているだけで明らかに道を譲りたくなるような車の場合については、結構懐疑的スタンスというか、「まぁ、クレームは言わないにしろ、その光景だけいきなり見たらびっくりしそう」と思う。が、制服でごはんを食べる。この点に関しては何が悪いのかさっぱりわからない。 [2] … Continue reading

もちろん、制服ったって、空自のパイロットがフル装備でうどんすすってたらそれはそれでびっくりするし、「びっくりさせないでよ、もー」くらいの文句は言いたくなるかもしれない。 [3]でも絶対に言わないで、密かに見惚れていると思う。私は。今回の団員さんたちがどのような格好だかは不明だが、つなぎの作業着くらいなら、全然許容範囲でしょ。「あら、消防の人だわ。」この程度だろう。警察官でもまぁ、「珍しいもん見たわー。忙しいのかな?」くらいで、もし自衛官が迷彩服なり制服なりで、近所に駐屯地もないのに、うどんすすっているのに出くわしたら、流石に一瞬固まった後、「・・・いい食べっぷりね」と観察して終わりそう。いずれにしろ「公僕のくせに制服でごはんを食べるだなんてケシカラン!!」とはならない。だいたい、消防の人とか自衛官とかには、しっかり食べてもらって、いざって時に馬力を出して助けて欲しい。いざって時はないに越したことはないけれど、そのために訓練をしていて、そのためにお腹がすくなら、制服姿が何です。しっかりお食べなさいな。

とここまで書いて思い出したのが、例によって池田晶子女史の文章。あった、あったで引っ張り出してきたのは「考える日々 全編」の455ページ目。

 消防士が危機に対処すること、機敏にして平等で、しかも人命を救助するために命懸けである。命懸けということなら、自衛隊員もそうだけれども、頻度が違う。われわれは、自衛隊員が命懸けでその任務を遂行するところを、じつはまだ見たことがないのである。

その晩、ぬる目のお風呂で興奮を鎮めながら思ったのは、「消防士は最も清廉な公務員である」。

「公務員」というものの、使命と理想の原形があそこにはある。清く正しく逞しい。だらけて腐れた警察関係者たちは、自身の行いを深く恥じ、消防士の精神を見倣うがよろし。

ずいぶんな持ち上げようだった。「俺の家が燃えたらひとつよろしく」と賄賂を渡すようなもんではないから、というのがその理由らしい。ま、そりゃそうだ。正直、社会というか、われわれの生活を命懸けで守ることを仕事にしている人たちを無条件に讃えることは、警察の汚職やら自衛官の淫行事件なんかもあるし、できない。でも、そうでない人ほとんどの人たちへの敬意は忘れないでおきたいと思う。ステータスシンボルではなく、公僕としての誇りとして、制服を着て、正々堂々うどんを食べてもらえるような社会を目指していきたいものですね。

 

 

References

References
1 特に消防車だなんて高価で特殊で、公道を走っているだけで明らかに道を譲りたくなるような車の場合
2 一応確認しておきますと、今回のニュース&市民からのクレームは主に「消防車」に対してであり、制服の方ではないです。ネット上の反応はそっちも含めているようですが。
3 でも絶対に言わないで、密かに見惚れていると思う。私は。

黄色いネズミを捕まえろ!

ポケモンGOがとうとう昨日から日本でも解禁!ということで、ITベンチャー気質を誇る我が社でも、早速社内で遊んでいる人が何人かいた。とある人に「ゼニガメを捕まえたんですよ!」と自慢されたので、「◯◯君はゼニガメ捕まえたんだって!」とスマホとにらめっこしている他の社員に伝えたら、なんとゼニガメは雑魚とのこと。ポケモンのゲームで遊んだり、アニメを見たことがないので、そんなこと、私にはわかんないや。

そう、実家では親の教育方針なのか、それとも単にケチだったのかはわからないが、ゲームは一切禁止だった。ポケモンはもちろん、ドラクエも、FFも、マリオもやったことがない。中学生になって友達の家でプヨプヨで遊ばせてもらった時、コントローラーの持ち方がおかしいと笑われたものだった。でも、そんな我が家でも父親が少々理系オタク気質なこともあり、パソコンの導入だけは早く、故にF1レースや飛行機操縦ゲーム、テトリスなんかで両親が遊んでいた記憶はある。 今思うと見事なダブルスタンダードを展開されていたわけだが、素直だった我ら三姉妹は疑問に思っていなかった。

で、くだんのポケモンGO。やっぱりやる気がわかないので、遠巻きに眺めることにした。そもそも携帯ゲーム(DSもスマホのアプリ)も遊ぶ習慣がほとんどない。電車の中で携帯ゲームをするのは如何なものかと思うメンタリティーで生きてきているし、これからもそれで多分生きていくし、歩きながらのスマホはやっぱり危ないし。人間観察の方がずっと面白いと思うよ。

ちなみに、私が唯一スマホに入れているゲームはラムズフェルド元国防長官も関わったというチャーチル・ソリティアである。これを寝る前に10〜30分ほどやることが多いが、なかなか難しいものですね。全然勝てないです。

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余談だけど、そして真実かコラかは不明だけれども、それでもなかなかグッとくる話。