Archive for the ‘哲学・思想・宗教’ Category.

守るべきソーシャル・ディスタンスはソーシャルのままでいいのか?

この1年ちょい、常々変だな、おかしいなと思っていたのが、「コロナ感染対策に【ソーシャル】・ディスタンスを!」と世間で言われている点。お互いの距離を取れという意味であれば、人と人とが物理的距離の話なのだから、【フィジカル】・ディスタンス、もしくは単にディスタンスで良いではないか?と。例えば、私が列に並ぶ。前の人と2メートル離れましょう。これは物理的な距離の話であって、別に前の人と社会的に近づいたり離れたりはしない。大概は「たまたま同じ行列に並ぶことになった」だけの知らん人である。「その人と社会的に離れろ」とは、何を意味するのか?同じ行列に並ぶのは、社会的には似たもの同士 [1] … Continue readingと言えなくもないだろうが、その人と社会的に距離を取れとはどうことか。私か前に並んでいる人のどっちかが社会的な何かを変えなきゃならんということか?うーん、妙。 [2]一応、WHOは「ソーシャル」じゃなくて「フィジカル」って言おうよ!って言ってるらしいけど、全く定着してない。「ソーシャル」なディスタンスって何?

と思っていたら、同じ疑問を提示していたジョルジョ・アガンベンの「私たちはどこにいるのか?」を読んだのでご紹介。去年の〜7月までにイタリアで発表された文章なので、日本の状況とはそぐわないだろうし、翻訳者あとがきにも書いてある通り、表面だけ読むと「コロナはただの風邪」「ソーシャルディスタンンスは不要」と主張しているのかと勘違いされそうな本ではある。とは言え、その主張は中々膝を打つものだった。

 

私なりにまとめてみると、【今回のコロナ禍での政府の対応は既存の法やルールではなく「例外状態」であること、そしてそれを皆すんなり受け取っていること、医学が人々の「コロナ禍でのあるべき生き方」を決めているが、医学はこの状況に関して、かつて宗教が提示したような救いや贖罪など示しようがなく暫定的な治癒しか供給できないこと、健康「権」が健康「義務」になったこと、そして、その先には個々の人間が「機械(インターネットなど)を通した社会的距離」を保った、というより、断絶された人間の集合である全体主義に続くこと】こんな感じになるかしら。

医学的装置であったならば、それは「物理的距離確保」や「個人的距離確保」と呼ばれるほうが正常だったでしょうが、そうではなく「社会的距離確保」と言っている。これが新たな社会組織パラダイムだということ、つまり本質的に政治的な装置だということをこれ以上はっきり表現することはできないでしょう。

P144

政府の呼びかけである「お互いの距離を2メートル取りましょうね」、これは物理的距離確保の話だが、実際のところはコンサートやイベントの中止、大学の対面授業の中止 [3]アガンベンはこれも中世から続いた学生団体の終焉、と嘆いている。、親にも会いに行けないし旅行にも行けない、とはっきり言われていないけれども、本当の社会的距離もキッチリ遠くなっている。物理的な距離のことを社会的距離と呼び、真の社会的距離については何も言われないまま、当然のものとして遠ざかる。使うべき言葉の階層がずれているため、本来その言葉で表現し、きちんと考えなければならないものが宙ぶらりんになっているのではないか。

アガンベン本人も本書の中でたびたび示唆しているが、これはナチスへの道と同一なのではないか?この本の前に「近代とホロコースト」を読んだのだが、そちらでも以下の通り、科学や距離について触れていた。

 

科学はなによりもまず、驚くばかりの力をもった道具とみられ、それを手に入れたものには、現実を改良し、人間の計画と設計に沿って現実を再形成し、その自己完成に向けて科学を後押ししてゆくことが許される。

P142

あらゆる分業(たんなる命令系統の存在の結果としての分業も含め)は、共同作業による最終結果に貢献したほとんどの人と、結果それ自体のあいだに距離を作りだす。官僚的権限の鎖の最後の輪にある者が自らの作業を開始しようとするまでには、ほとんどの準備作業はそれを行ったという個人的実感のない、また時として、その認識さえない人間によってすでに終えられている。

P189

一応、ちゃんと主張しておくけれども、私は別に「科学が悪い!医療なんぞクソだ!くたばれ、分業!」と言いたいわけではない。科学や医療の恩恵はきっちり受けているし、最前線でコロナと戦っている医療関係者や保健所の方々や研究者に対しては彼らがいるからこそ、私はまだ元気に生きているのだと感謝しかない。(じゃないと、とっくに感染してるでしょうよ。)分業制だって、いまさら自分の生活を全部自分で支えろと言われても無理なのだ。そうではなく、「この流れはきちんと把握しておく必要がある」と言いたいだけ。バウマン曰く、ホロコーストは近代の官僚制と科学だけでは起こり得なかった。

近代国家の官僚制度の頂点に君臨する、非政治的な力(経済的・社会的・文化的な力)から解放されたグランド・デザインの提唱者。これこそジェノサイドの元凶だ。ジェノサイドはグランド・デザインが実行にうつされる過程の不可欠な一部である。グランド・デザインはそれに正当性を付与する。国家官僚機構はそれに媒体を与える。そして、社会的麻痺はそれに「ゴーサイン」を与える。

P215

つまり、ヒトラーその人。それが出てくると、あれよあれよとグランド・デザインに基づいた造園的「雑草」の除去が始まってしまう。そして今、幸いヒトラーはいないが、宗教化した科学と近代官僚制は変わらず存在し、人々の距離は【ソーシャル】・ディスタンスによって十分に保たれているので、なかなか危険度が高い状態なのではないか?まぁ、だからと言って科学や官僚制を捨てることもできないし、この状況下でノーマスク・ゼロ距離接触というのも難しい。我々は起こっていることを無関心に眺めるのではなく、一人ひとりがしっかり見つめて考えていくこと、その結果の多元主義こそが全体主義を防ぐことになるのでしょう。ある意味興味深い時代ではあるが、後世の人に「あの時は危なかったけど、踏ん張ったねー」と笑ってもらえるように頑張りたいところですね。

 


 

ついでに、アガンベンの本から考えたこと。「科学(医療)は社会的な距離だけではなく、生と死の距離も広げているのではないか?」そして、ちょっと怖い一言。

人間が純然たる植物的状態で維持された場所はこれ以外かつて一つしかなく、それがナチの収容所

P92

References

References
1 並ぶ理由が同じ=同じ目的を持っている=社会的地位や収入が似ている…と、言える。例えば数量限定の高級チョコに並んでいるのであれば、高級チョコを買う余裕のある収入がある、並ぶだけの時間的余裕がある、など。もちろん、金に余裕はあるが、時間に余裕がない人が、金がないが時間がある人に並ばせるなどもあるだろうし、絶対的にそうとは言えない。
2 一応、WHOは「ソーシャル」じゃなくて「フィジカル」って言おうよ!って言ってるらしいけど、全く定着してない。
3 アガンベンはこれも中世から続いた学生団体の終焉、と嘆いている。

自分の頭で考える

私が今まで一番大きな影響を受けた本は、田中芳樹の「銀河英雄伝説」だ。中学1年だか2年だかの頃にどハマりして以来、ずっと愛読している。主人公の一人、ヤン・ウェンリーは民主主義国家に生まれるが、彼の(ちょっと残念な)父親との会話でこんなのがある。

ルドルフがそれほどの悪党だったなら、なぜ、人々は彼を支持し権力を与えたのか?(中略)
「民衆が楽をしたがったからさ」
「楽をしたがる?」
「そうとも。自分たちの努力で問題を解決せず、どこからか超人なり聖人なりがあらわれて、彼らの苦労を全部ひとりしょいこんでくれるのを待っていたんだ。そこをルドルフにつけこまれた。いいか、おぼえておくんだ。独裁者は出現させる側により多くの責任がある。積極的に支持しなくても、黙って見ていれば同罪だ……(後略)」
(「銀河英雄伝説1 黎明篇」田中芳樹 P55)

ルドルフというのは、ヤンの国と敵対する帝国の始祖であり、ヒトラーと同じように、最初のうちは比較的穏健に民主主義体制の中で地位を固めた独裁者であるから、この部分は純粋に独裁制についての話と読める。が、本当にそうだろうか?我々も民主主義国家の中で、選挙の時だけは公報だとか読んで、それなりに考えて投票しているだろうが、その後、当選した議員に対して全てを丸投げし、ただ文句を言っていないだろうか?我々は自分の頭で考える責任を放棄していないだろうか?

これは政治に限らない。例えば規則やルール。細かく決められていれば、それに則っている限り、誰も文句を言わないわけだし、むしろ褒められることもあるし、全く問題はない。だが、規則に従ってさえいればいいのか?その規則がなんのためにあるのかを考えなしに「規則だから」と従うのは、ルドルフに従うが如く、思考停止ではないか。勿論「じゃあ、考えた上ならば、規則なんてぜーんぶ破ってもいいのね?」と言われると、それはちょっと違う、としか回答しようがないのだが…

いずれにしても、我々はもう少し考えることをしても良いのではないかと思う。ポリティカル・コレクトネスだとか、文化の盗用だとか、本来明確なラインを引きにくいものにも線を引いて社会のルールにしてしまうから、いちいち大騒ぎになる。この世のぼんやりした部分はぼんやりしたまま、その時々で考えて判断を下せば良い。なんでもルールに縛られては、新しいことは何ひとつ生まれないだろうし、何より堅苦しくて生き辛い。一人ひとりが自分で考えた結論に基づいて行動すれば、きっと社会も面白くなる。せっかくネットという簡単に発信できるツールを手に入れたんだもの。そこでどんどん発信していけば良い。他の人の考えに触れて、さらに自分の考えを深めることもできるだろう。

…とかた苦しいことを書いたが、これ、メイクだとか流行だとかについても一緒だと思う。今の流行りが万人に似合うわけでもなし、自分にとってのベストは何か?と考え試行錯誤することが美人への大前提だろう。似合う似合わないに関わらず、版画みたいに同じ顔が溢れる社会は何かが気持ち悪い。

そう考えると、考えるというのは自分を一度見直すことから始まるのかもしれないな。結局それこそが、個性を大事にした多様性を持った社会に繋がるのだろう。私はそういう社会で生きたい。

哲学にハマったカエル、環境保護について考える

カエルのクラウス君の友達、チャーリー君はご存知、女装癖のある魚。それもこれも環境ホルモンの影響なのですが、若いカエルのクラウス君やナメクジのヨハン君は全く気にしていません。ただ、他の魚たちがチャーリー君を横目に「カンキョーホルモンのせいだ」と囁き合うので、「カンキョーホルモンというのはさぞかし悪いものなのだろう」となんとなく認識していました。

ある秋晴れの日、チャーリー君が暮らす池に人間の大人たちがやってきました。ついてきた近所の子供(見つかるとクラウス君を掴もうとしたり、ヨハン君に塩をかけようとするので、クラウス君もヨハン君も苦手なのです)が、「おじさんたちは何をしているの?」と尋ねます。大人たちは「環境保護のための調査だよ。我々の環境破壊せいで、他の動物たちにひどい影響が出ているからね。このままでは人も破滅してしまうんだよ。地球を守るのは人類の使命なんだ。」と答えていました。

それを草の陰から聞いていたクラウス君とヨハン君は囁きあいます。「あの人、カンキョーって言ったよね?それってあのカンキョーホルモンのカンキョーかな?」「たぶんね」「ってことは、カンキョーとは悪いものなのかな?」「いや、破壊はともかく保護のためって言ってるんだから、いい意味じゃないのか?」「確かに、地球を守るって言ってたもんね。他の動物にひどい影響が出ているのは、人間のせいだから守る使命があるって。それはチャーリー君のカンキョーホルモンも人間のせいってことでしょ?それをなんとかしようって、人間って立派だなぁ!」

何事にも大変素直なクラウス君は、すっかり人間の行いに感心してしまいました。ただ、クラウス君より、よく言えば思慮的、悪く言えば疑り深いヨハン君は、(ナメクジなので実際には眉毛はないのですが)片眉をあげて、反論します。「クラウス君、何事にも素直に取るのは君の長所だけど、僕の見方からすれば、人間は立派でもなんでもないさ。だって単に自分たちの落とし前を自分たちでつけるってことだろ?そんなの立派じゃない。当たり前だよ。」

素直と持ち上げられているようで、暗に単細胞と言われているような気がしたクラウス君は赤面しながら、小さな声で「…そうかな?」とやっと呟きました。

「そうだよ。そりゃ今いる人間が全て悪いわけじゃないだろうけどさ、人間が今まで色々好き放題やって、その結果自分たちの破滅が見えたから保護しなきゃって、究極の自己都合じゃないか。もし自分たちに一切影響が出なかったり、気にならなかったら、人間はずーっと今まで通りだったはずだ。」「僕らからしてみれば、人間なんて空から降ってくる隕石と同じだ。カンキョーホルモンをばらまく厄災であって、それで僕らが滅ぶと言うならば、それはそれで、単に僕らの定めだったのかもしれない。その定めさえも自分たちのものにするなんて、人間は傲慢じゃないか。」

クラウス君の目をじっとみてヨハン君は言い切りました。「破壊だの保護だの、何様なんだ。」そして、ちょっと言い淀んでから「まぁ、それでも人間のせいで住みにくくなったのは確かだし、それが少しでもましになるならば、感謝すべきかもな。」と付け加えました。

クラウス君は、カンキョーホルモンを探そうとしているのか、しゃがみこんで池の水を採取している人間の背中を、ただじっと見あげていました。

大戦略とは歩く道の決め方 ジョン・ルイス・ギャディス「大戦略論」

「戦略」と言えば、軍事戦略、国家戦略、ビジネス戦略辺りがパッと思いつく。同じ「戦略」という単語を使っているのに、扱っている分野が全然違うため、「戦略」というその単語自体が分野によって、その意味するところや定義が微妙に違うのではないか?と思ったりすることもある。今回のギャディスの「大戦略」は、どちらかと言えば軍事戦略、国家戦略に近いのだろうが、「大」戦略なので、それにとどまらない内容だ。むしろ、バリバリの軍事戦略を期待して読むと、第4章で出てくるアウグスティヌスあたりで躓きそう。章立てとしては、歴史の古い順に、同時代とは決して言えないが、遠くはない(でもたまに遠い)時代の複数人をピックアップして流れるように進んでいる。リンカーンだけは、ギャディスが非常に高く評価していることもあり、一人だけフィーチャーされている。 [1]同世代の他の政治家や、他の時代と比べていなくもないが。個人的には、ギャディスの言わんとしていることがよくわかる章と、意図を掴みかねる章の差が激しかった。

さて、肝心の内容だが、一言で言えば、大戦略とは「目標を持つこと。しかし、同時にそこに至るまでの道のりは柔軟であること。そして時間を味方につけ、違うスケールで状況をみること。」である。崇高な目標は素晴らしい。でも、そこに一直線に突き進んで、沼にはまるのはいただけない。同様に、足元ばかりを気にして、沼どころか水溜りまで避けて迷走するのも意味がない。避けるべき沼なのか、飛び越えてまっすぐ進むべき水溜りなのか、判断が必要なのだ。「急がば回れ」な時もあるし、勢いで突き進むこともある。いま、どちらが求められているのか、様々なスケールで検証が必要で、目的と手段の「釣り合い」を取ることが、大戦略なのだ。

これは決して難しいことではなく、ビジネス戦略以上に身近に戦略を引き寄せることができるのではなかろうか?ペルシャ帝国のクセルクセス一世から話が始まり、FDRで話が終わるため、あたかも軍事戦略や国家戦略を歴史から学ぶ風ではあるが、結局「目標に至るまでの歩き方」「ものの見方」についてなのだ。つまり、この本は日々の生活にも応用可能と言える。まぁ、マキャベリぽい人が身近にいると、なにかとやりにくいだろうが・・・

正直なところ、一般読者はともかく、ビジネス戦略に関する本を求めている人でさえ、本書を手に取ることはなかろうが、この本は多分そっち向けなのだ。逆にバリバリの軍事戦略を期待すると、拍子抜けするだろう。

References

References
1 同世代の他の政治家や、他の時代と比べていなくもないが。

民主主義とは無条件でいいものなのか?

読んでいて涙が出そうなほど難しいが、「民主主義は良いもの!」といった単純な視点から離脱する、なかなか示唆のある本。何箇所か引用してご紹介。一番上は個人的に「ほー」と思った点で、ちょっと毛色が違います。

しかし、クラークを単純に殺害するという意味は、そこにはなかった。目標は、個人としてのクラークではなく、階級としてのクラークを一掃することであった。(中略)ナチスの反ユダヤ主義を見れば、ここでもスターリン主義とナチスの差異ー極小ではあっても決定的な差異ーは決して消えることはない。ナチスの反ユダヤ主義においては、実際に、個人としてのユダヤ人を絶滅すること、人種としてのユダヤ人を消滅させることが最終目標であった。(P395)

 

したがって、民主主義には、他のものに還元できない二つの基本的側面がある。ひとつは、「余分な」者、「全体の一部ではない部分」、社会組織の内部に形式的に含まれてはいるがそこに決められた場所を持たない者の論理が、平等主義を旨として暴力的に出現すること。もうひとつは、権力を行使するものを選ぶための規則化された(多少とも)普遍的な手続きである。この二つの側面は、どういう関係にあるのか。第二の意味の民主主義(「人民の声」を形にする規則化された手続き)が、結局のところ、事故に対する防衛、社会組織の階層的機能を壊乱する平等主義的論理の暴力的な介入という意味での民主主義に対する防衛であるとしたら、どうだろうか?つまり、この過剰を再実用化する試み、それを社会組織の正常な運行に組み込む試みであるとしたら?(P400)

 

ここで受け入れるべき過酷な結論は、民主主義的手続きを凌駕するこの平等主義的民主主義の過剰性は、それとは反対の装いの下で、つまり革命的ー民主主義的恐怖政治(テロル)としてはじめて「制度化」される、ということである。(P401)

 

したがって民主主義は、敵対性を取り入れることができるだけでない。民主主義は、敵対性を積極的に求め前提とする、つまりそれを制度化する、唯一の政治形態である。民主主義は、他の政治システムが脅威と考えるもの(「生まれつき」権力者たろうとする者が不在であること)を、自らが機能するための「正常な」皇帝条件として位置づける。権力の座は空白であり、その座を生まれつき要求できる者はいない。だから争いpolemos/闘争を解消することは不可能であり、実在するあらゆる政府は争い polemosを通じて勝ち取られねばならないのである。(P426-427)

個人的に私も、周りの人も、「民主主義最高!」と考えているのは、単にそういう時代の生まれだからであって、他の時代に生まれ、しかもそれで不自由なく暮らしているのであれば、そのときの政治体制についてさして疑問も挟まず生きていただろうし、今後も民主主義以上に「良い」と考えられる政治体制が出現する可能性もある。無条件に民主主義を信じていては、そこになにか邪なものが入り込んでも気がつくことができない。

人間は臓器の工場か?

本当は「もし二・二六事件の青年将校がルトワックの「クーデター入門」を読んだら」の続きを書くべき・・・とわかっているのだが、読み始めてしまった本が面白かったので、鉄と情熱は熱いうちにということで、今読んでる本について。

この「生命に部分はない」、訳者である福岡伸一の講談社現代新書の2部作「生物と無生物のあいだ」「世界は分けてもわからない」の元ネタらしい。もともと単行本だったのを、新書化して無事3部作になった。前書2冊は共に(ちゃんと続けて)読んだ記憶は確かにあるのだが、肝心の中身を覚えていない。ので、そのうち読み返そうと思う。

まぁ、とにかくこちらの本、考える部分が多くて本当に面白い。私の悪い癖で、読んでいる途中なのだが、こういうのは勢いだから、このまま進めます。

さて、内容は行き過ぎた臓器移植ビジネスや遺伝子操作、人工授精についての批判なのだが、読み進めていくうちに、自己評価では結構進歩的なつもりだった自分の倫理観が、この件に関しては、そこそこ保守的であることがよーくわかった。例えば、移植のための死の定義の拡大について

脳の「高次機能」や「人格」を失ったものを含めて死の定義を拡張することの主たる理由は、ここでもまた、全脳死の場合と同じように、より多くの臓器が必要だからということなのである。(P91)

・・・ウエェ!もちろん、腎臓など提供者が生きたまま取り出せるものは、発展途上国ではとっくの昔にビジネスになってしまっているし、提供者が死なないと取り出せない心臓なども違法に流通している。よくまぁ、そういうビジネスが出来るものだと心の底から嫌悪する。自分の臓器を売る方は貧しさあまりかもしれないが、ビジネスを展開するほうは、貧しさあまって・・・ではないですからね。ふつう。

次に、その未熟さ故に拒絶反応が少ないと言われる胎児(中絶胎児)の利用!(利用!だって!!)について

たとえば、老化が目立つ年齢を迎えた人びとの身体機能改善のために、胎児が臓器や組織の供給源として大規模に使用されるという未来図を生物工学の研究者たちは描いている。(P105)

必要な組織を得るため何度でも妊娠することは全く問題はない、と考える医者や倫理家もいる。(P107)

胎児を販売することで、女性は人間部品産業における新商品の製造者と位置づけられ、医院や病院は製品の販売者または使用者ということになる。(P114)

・・・ウエェェェェ!!

個人的に、「子どもを作る」とは絶対言いたくないと思っていて、何故ならば、子ども=生命を作ることができるのは、人を超越した何かであって、人間の私ではないからである。子どもの体の素を提供することは出来よう。しかし、その体と不可分に結び付く意識、またの名、魂を作り出すのは私では断じてない。胎児を売りものとして敢えて妊娠するのは人の領分を完全に超えている。

また、臓器移植についても然り。何度か引用した記憶があるが、改めて池田晶子の言い分を明記しておく。

しかし、どう言われようと、自分が生きるために人が死ぬのを待つような、そのような心性をいやらしい、と感じる自分の直感を、私は信じている。(中略)

生存していることそれ自体でよいことである、という、人類始まって以来の、大錯覚がここにある。しかし、生存していることそれ自体は、生まれ落ちた限りサルにでもできることで、いかなる価値も、そこにはない。それが価値になることができるのは、人がそれを「善く」生きようと努める、そこにしかあり得ないのだ。(「考える日々 全編」P106−7)

とりあえず、本を読みながら考えたことは、

  • 人は人の領分を越えようとしている。それは、「生命製造」についてもだが、「死」を曖昧にしていく点にもある。死は、生きている限り経験出来ないものなので、明確に定義出来ないにも関わらず、人は自分たちの都合でより多くの臓器を利用するために、あえて死の定義を曖昧にしている。
  • すくなくとも私は、人の死を間接的に願うことはしないで、この肉体の最後を迎えたい。人の領分を超えた技術で生き延びるのではなく、いまの身体をできる範囲で慈しみ、老化を味わって生きたい。

でした。

 

Wunderkammerの世界

Twitterでもつぶやいた通り、佐藤優と読書について対談していた佐高信と勘違いして高山宏の本を借りたのが1週間ほど前。どうも名前が3文字同士で混ざったらしい。で、ヒトラーのあれとかこれとかをやっと読み終わったので、昨日から読み始めた。3章分ほど読んで、「これは佐藤優の対談相手じゃないな」と気がついた。さらに読み進めて「ははーん、これは松岡正剛や荒俣宏のお仲間だな」と。 [1]気がつくも何も、そう書いてあるんですけどね。

立花隆(この人も3文字)に手を染めた中学生の頃から、文武両道というか、兎に角、守備範囲の広い人に憧れがちな私は、大学の頃に美術だったか西洋史だったか、「Wunderkammer(驚異の部屋)」についてのレポート絡みで荒俣宏について調べたことがあり、これがきっかけで自分の目指す知の形が、専門分野に特化した縦型ではなく、分野横断の蜘蛛の巣型であることを認識し、それゆえ「浅くとも良いや。物事と物事の連繋が大事なのだ」と、せっせと糸を紡いでいる。もちろん、憧れの人たちのレベルほどには記憶力も知識も追いついていない。手で払えば簡単に崩れてしまう、文字通りの蜘蛛の巣。松岡正剛の輪に、荒俣宏の輪。高山宏の輪。そんな風にガイドを立てつつ連環を作っていけば、もう少しまともな形になるだろう。池田晶子はあの性格と内容なので、イメージ的には一番最後にやってきて、一番真ん中を陣取った感じかもね。この蜘蛛の巣をなんとか表現したいと思って始めたのがこのブログで、ブログ名はその気負いの表れだったりするのだ。で、今は単なる文章ではなく、文字通りの「蜘蛛の巣」を表現できないか考え中。そうするにはコーディングの技術が必要だと思うが、そんなに難しいものではないので、早いところ身に付けたい。

ちなみに、そういう意図もあって、読む本の内容は多少の偏りはあるけれども、節操なしを目指している。読んだ本は漫画や飛ばし読みしたものを除いて全てこのブログの「読んだ本」ページに記録しているが、実際に会社の人や家族にはどういう本を読んでいるのか全体像が見えないらしい。一度読んだ本リストを読み上げたことがあるが、ただ一人、私が本を読む理由を当てた人がおり、非常に驚いたことがある。お堅い職業の人なのでとても意外なのだが、芥川龍之介の河童語について熱く語るあたり、そっち系の素養?もある人なのかもしれない。

高山宏に戻ると、彼は助手時代に大学研究室書庫の目録をカードにまとめていた。それが、今の彼のベースになっていると言えるんだが、それについて読んで思い出すのが「丸写しの威力」。小学校5年生のときだったが、理科の自由研究の一環かなにかで、科学雑誌Newtonの木星とその衛星イオについての記事を丸写ししたことがある。ご丁寧に絵まで真似して描いた。おかげさまで未だにイオ・トーラスの仕組みを覚えていたりするので、丸写しというのは本当に効力があるんだろう。人生2度目の大掛かりな丸写しプロジェクトは、大学の頃、ウッドロー・ウィルソン・ライブラリーにインターン身分で通いつめ、ウィルソン書簡全集(the Papers of Woodrow Wilson)の中から日本に関わる部分をかたっぱしから書き留めたものだったりする。第6巻167ページから58巻の185ページまで。全部書き写したか、それとも時間切れで最後の方が抜けていたかは正直覚えていないんだけど [2] … Continue reading、100枚綴りのノートほぼ1冊全て使い切っている。こんな妙なノートを持っているのは世界広しとも私だけだと思うよ、さすがに。索引でJapanもしくはJapaneseで調べて、該当ページに付箋を片っ端から貼り、その後黙々とページ数やいつ書かれた手紙(書類)か、誰宛かをメモして、その中身をノートに写す。これを3ヶ月ほどかけて1巻ずつ進めていった。これはこれで妙に記憶に残るプロジェクトだったし、博物館の見学者お断りの上階でバンカーズライトを灯しながらひたすら書き写すのはとても楽しかった。せっかくなので、その時のノートをさらしておく。また何か丸写ししたいな・・・と高山宏の本を読んで思ったので、手頃なものを見つけよう。ロジェのシソーラスとか?さすがに量が多いかしらね。

References

References
1 気がつくも何も、そう書いてあるんですけどね。
2 多分網羅できていないと思う。彼の任期は1921年までなのに、ノートは1919年4月28日で終わっている。その間、国際社会で日本が話に上がらないとは考え難い。とはいえ、やりきった記憶もあるような・・・

絶対悪とかそういうものについて(ヒトラー・ドイツから)

映画「ヒトラー 〜最期の12日間〜」をAmazonプライムで観てから、私の中で何度目かわからないナチス・ドイツに関する読書がマイブームになっている。映画自体は長いし、誰が誰だかわかりにくいので、一旦観て、原作を読んで、もう一回飛ばしながら興味深いところだけを見る必要があるが、よくまあ、あれだけのクオリティーで作ったな、というのが正直な感想。おかげさまで、国防軍の制服とSSの制服が見分けられるようになりました。今まで、区別つかなかったんです。後、一部SS将校や医師たちについて、好意的とも言えるキャラ付けをしているので、実際の地下壕での言動はともかく、それ以前の戦地等での行動を無視して「いい人じゃん」という認識を持つ人も多いのではないか? [1]モーンケなど特にその辺はドイツでも賛否両論あったらしいが、本当に要注意。

    

さて、今のところ読んだのは、映画の底本になった「ヒトラー 最期の12日間」「私はヒトラーの秘書だった」と、「ヒトラーの死を見とどけた男 地下壕最期の生き残りの証言」であり、この後はもう少し踏み込んでナチス・ドイツ史大家 [2]イアン・カーショーアントニー・ビーヴァーなど。どれも分厚くて二の足どころか十の足を踏むレベルなんですが・・・の本に手を出す予定。

で、なぜもこう私がヒトラーやナチス・ドイツ、更にはスターリンや毛沢東に興味があるかといえば、「人はどこまで悪しき存在になれるのか?」という点に尽きる。ヒトラーは「絶対悪」なのだろうか?ヒトラーは身近な人には親切だったという描写も読んだ本にはある。 [3]顕著なのは「私はヒトラーの秘書だった」だとしたら、その優しさや気遣いは絶対悪のなかのどこを占めるのだろう?ヒトラーでなくともナチス高官やSS将校達は?自身の家族に対する優しさと、戦場や強制収容所での行動の乖離は何故なのだろう?それがわからない限り、人がどこから悪しき存在になるのか、わからない。要は自分自身も何かのきっかけで、そっちに足を踏み入れるのではないか?という恐れがあるんだな、私は。陳腐な悪と日常を線引くものはどこにあるのか・・・ヒトラーやアイヒマンを我々は絶対の善の立場から断罪できるのか?では、抑圧された他者に無関心だったナチス・ドイツ国民については?もし「あの頃のドイツ国民も罪人だ」と言うならば、現在のシリアの状況を知りながら何もしない多くの人間も罪人だろう。実は知っているのに放置している、その自覚がないのは許されるのだろうか? [4]何に?こうなると、ハンナ・アーレントを本格的に読み込まないとダメだなーと思ってる。

ちなみに、これは完全に余談だけれども、個人的にはスターリンの方が人としての優しさ部分がより少なく感じる。もちろん、それは単にスターリンに関する資料や証言が秘匿されていたり、純粋に少ないせいなのかもしれない。ただ、ヒトラー関連の本や日本昭和史を読む限り、スターリンのやり手っぷりが半端ない。ロシアの気質なのかはわからないが、ルトワックのいう「ロシア人は戦略が得意」というのは、本当だと思う。

 

References

References
1 モーンケなど特に
2 イアン・カーショーアントニー・ビーヴァーなど。どれも分厚くて二の足どころか十の足を踏むレベルなんですが・・・
3 顕著なのは「私はヒトラーの秘書だった」
4 何に?

現代のソフィストたち

ちょっと前にツイッターで

と、呟いたんだけど、これはその時に、確か沖縄の基地問題の話をいわゆる左右の人で舌戦を繰り広げているのをみて、思ったことだった。要は「広い視野を持ちましょう」とか、「よく勉強してから口をききましょう」とか、そういうことなんだけれども、人はどこまで「広い視野」を持ちうるのか、どこまで勉強し、物を知り、考えれば、「語れるほど」に知っていることになるのか。そう考えていくと、「いつまでたっても何かについて偉そうに語ることはできない」という地点にたどり着く。

そういう意味では、みーんなソフィストなわけで、ツイッターなどのツールも多い分、論争も延々と絶えることはない。ソクラテスの真理に鼻白みながら、それでも語ることをやめないんだろうな。私も。

 

思いついたことをつらつらと

■悪について

悪という言葉を聞いて、それがわかる人は、悪を知っている=内に秘めているのではないか?悪いことが目の前に繰り広げられていて、それに対して「これは悪いことだ」とわかるのであれば、どんなに良い人でも、その人は悪がどういうものであるか知っている。なぜなら、わからないことは認識し得ないのだから。悪とか善とか美とか、そういう目に見えないものをわかるには、そもそも自分の中に、それらが備わっているからである。

 

■読みにくい文章

もちろん戦前の「旧漢字+カタカナ(濁点が全てないバージョン)」とかは、読みにくさの極みだが、現代口語で読みにくい文章となると、「似たようなフレーズや内容の繰り返しが多い」のが一番イライラするな・・・「〜いかがであろうか?」が同じページに2、3度出てきただけで、「ウェェ」と思う。

 

■料理について

今まで鍋くらいしか家で作っていなかったのに、結婚を機に心機一転料理を頑張ろうだなんて考えるからつらいのだ。一汁一菜に煮卵とか、お酒のつまみになるようなものを作れば問題なかろうに。もちろん育ち盛りの子供がいる家庭では、全然足りないと思うけど。生きることは食べること。料理とうまく付き合えばよろし。